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かまびすしさすら楽しんで

いろんな諦めが、受容が、割り切りができるようになってきた今だからこそ書いて残すべきことがあると感じて久しぶりにnoteを開いた。綺麗に書こうなんて思ったらば、頭の中のnoteでたくさんの文字が飛んで回って、右往左往として、どの言葉も捕まえられなくなるから。だから綺麗に書かない。これはただ、息を吸って吐いているような、そんな単純な動作にしたい。誰も吐いた息を見返したりはしない、そんなように。

OSを取り戻す

世界に一つだけのオペレーションシステムがみんなの中に入っていて、朝起きた瞬間にスイッチが入り起動する。順番にこの社会を生き抜くための、武器や価値観がロードされていく。ローディングが完了したならば、目を開いてその日も自分らしく息をして、自分らしく一日を終える準備ができたということだ。

でも、どれだけの人が「自分の好きなOS」を毎日起動できているだろうか?

せせこましい流れの中、大きな流れに置いていかれないように感受性のチャンネルを閉じ気味で家から出る。お昼休憩に向かう太陽光の角度がよろしい、綺麗目なカフェで頼むホットサンドwithサラダや、仕事終わり19時半から駅前の焼き鳥屋さんで飲む生ビールで乾杯。そう言った時間にだけ、自分のOSが存在するように感じて、それ以外の時間はOSがうまく起動してなくて。

気づいた時には、「あれ、自分ってこんな人間だったっけ?」「学生時代はこの小説すきだったはずなんだけどな」「趣味ってなんだっけ」みたいに、どんどんどんどん自分が変容していくのを感じる。たまに出会う、たまらなく愛おしい早朝5時の散歩を通してOSを再確認することはできても、それは束の間、すぐにOSは見えなくなって、起動ボタンの位置すらもわからなくなって、また日常に溺れる。

焦点は合っているか

私はここにいて、目を開いてキーボードを叩く。または、目の前にいる人と会話を進める。資料を読み、頭に入れる。エクセルで計算をする。

その目は、どこに焦点をあてているんだろうか。

焦点があっているようで合わないような瞬間は記憶に残らない瞬間だとおもう。頭はいつもぼんやりとしていて、気づいたら全て終わっている。気づいたら時間は流れているし、気づいたら大切な人も増えている。捨てられないものも増えて、プライドだって凝り固まっていく。焦点を当てたい世界に対して、焦点を当てないまま暮らしていても良い写真は撮れない。流れていくものを最大限感じようとする試みはすっごく大事で、でもそれを非日常に求めてしまうと本末転倒になる。

見たいものはなんだろう、どんなレンズを手に入れれば良いんだろう。

そんな考えを一旦捨てて、踏ん切り良く捨てて整理していく。

これは見ない
これは考えない
これはしない

まるで生き生きと楽しそうにベルトコンベア前で仕分けをする作業員みたいに。どんどん仕分けを行う。

私たちの生きているこの社会にはあまりにも誘惑が多いから、誘惑に目が曇ってしまう前にしっかりと、今持ってるレンズを拭いてあげて視界をクリアにして、見たいものの正体を鮮明に思い描いて、そちら側に視線を向けてあげる。

冷水を浴びせ続ける

焦点を合わせる作業が簡単にできれば、それに越したことはないけど。
そんなに単純じゃないのが愛すべき私たち。
石田ゆり子様のエッセイに「悩みは気づきによって解決する」という言葉が出てくる。ということは「気づける」人は強いということ。
それは大きく息を吸って吐いてリラックスした時に訪れるものかもしれないし、中央線にのって東京に向かう電車の中で景色を見ている際に訪れるのかもしれないし、道路を歩く子どもが撒き散らすシャボン玉が顔に当たってわかるのかもしれない。いつ訪れるかわからないけど、訪れる時はたくさん訪れる。

それは冷水を浴びた時の感覚に似ていると思う。

冷水を浴びると思わず息が漏れる、終わった後はタオルに迎えられるのが心地良くって、拭き終わった後の自分は冷水を浴びる前の自分とは確実に違っているよう思う。

本当に冷水じゃなくても、日々の暮らしの中で積極的に気づきの訪れを感じられると、いつだって悩みは解決するし、焦点は合わせられるようになる。だから、自分自身に定期的に、できれば毎日、そういった”冷水”を浴びせ続けたいと思う。

やりたいことがある

「やりたい」と心の底から思えることに出会えたなら、その人の人生はそこでほとんど完成していると思う。「一生をかけて作りたい」と心の底から思えるものに出会えたなら、その人の人生はもう作品ですらあると思う。

やりたいことに出会うことすら難しいこの社会で、だれの言葉でもなく、誰かの猿真似でもなく、嫉妬でモ、羨望でも、虚栄心でもなく、好きなことがあると胸を張って堂々と言えること。好きな人がいると堂々と表現できること。見たい世界があると大々的に伝えられること。それは何て素敵なことだろう。

もう一度生まれる

幸いにもこんなわたしにも、胸を張ってやりたいと言えることがある。会いたいと言える人がいる。誇れる自分の要素が至る所に存在する。その1つ1つを自分のためだけに使うのには、もう飽きてしまった。
次は焦点をしっかり合わせて、冴えた頭でずーーーーーーーっと前の方をしっかりと見つめて、そこに見える世界を社会に実装したくなった。その世界で僕の好きな「人間」という生物が苦労しながらも、お互いにふんわりとゆるくつながっている社会的生物として在る未来像が見えてしまった。
たくさんのものを避けてきた私だからこそ、見据えるべき未来の解像度を極めて高くあげることができた。この数年間は無駄ではなかったと本気で思える。

思索こそが快楽だったステージは終わり、
社会(構造および都市)を使って創造するステージに突入した

いままでにないくらいワクワクが止まらない。
残りの生命、活力全部振り絞ってでも想像を創造する
生きている間に実現する可能性は極めて低くくても、それでも「見たい」と強烈に思ってしまったが最後、歩みは止まらない。


全てが楽しい。
全てが美しい。
しんどいも、辛いも、悲しいも、楽しいも、興奮するも、絶望するも、ぜーーーんぶぐるっと風呂敷で巻いて包んで肩にかけて生きていく。



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BOOKOFFで110円の文庫本を買います。残りは、他のクリエイターさんを支えたいです