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渋谷「珈琲店パリ」の閉店に寄せて

ヘミングウェイの短編小説に『清潔な、明かりの心地よい場所』というものがある。

何度読んでも、この短い話に心惹かれる自分がいる。

そして、都会を生きる私たちには自分が孤独になれる「清潔な、明かりの心地よい場所」がたしかに必要なんだなと思う。


先日、久しぶりに渋谷を訪れた。

道玄坂の脇の小径に入ったところに、私の「清潔な、明かりの心地よい場所」のひとつである、「珈琲店パリ」があるはずだった。

しかし、その店にはシャッターが降ろされ不吉な白い紙が貼ってあるのが遠くから見えた。

「まさか」

そう思って近寄って紙を見ると、そこには閉店のしらせが記載してあった。

降ろされたシャッターの前でしばらく立ちすくんでしまい、私は自分がどこに行けばいいのか見当もつかなくなってしまった。

とにかく座って落ち着こうと近くの喫茶店に入ったのだけれど、どうも落ち着かない。

慣れないチェーンの喫茶店で私は孤独を感じた。そしてなんだか空虚な寂しさもおぼえた。

孤独になりたくていつもの喫茶店を訪れたのに、違う喫茶店で感じる孤独はちょっと味気なくて快いものではなかった。それもなんだかおかしな話だ。


さて、ヘミングウェイの『清潔な、明かりの心地よい場所』に戻ると、作中でこの孤独を求めているのは名もない老人だ。

彼は深夜になっても帰る気配なくブランデーを飲み続けている。若いウェイターのふたりが、その老人をめぐって会話する。

歳下のウェイターは早く家に帰って寝たいがために、老人に早く帰ってもらいたいと苛立ちを募らせる。

歳上のウェイターは老人が深夜にこうした場所を求めていることを理解している。そして、そこにはある種の切実さがあることも感じ取っている。

結局、苛立ったウェイターが老人を帰らせてしまうのだけれど、歳上のウェイターは同じように自らの孤独を求めて街を彷徨うことになる。


私が東京にきたのは23歳のときだった。

慣れない都会で、私は自分の足をつかって少しずつ居心地のよい場所を見つけていった。それはこうした喫茶店だったり、あるいは恋人だったり、あるいは本や友人だった。

「珈琲店パリ」は渋谷を訪れると必ず立ち寄った。よく当時の恋人と待合せたり、ひとりで本を読んだりした。

人も店内も肩ひじ張ったところがなくて、不思議と私は安心した。

そこには誰をも拒まず、誰にも干渉しない心地よい距離感があった。

「珈琲店パリ」がなくなった今、私には渋谷が見知らぬ街のように感じられる。

降ろされたシャッターに貼られた紙の末尾にはこう結んであった。

「パリとこの薔薇の花を忘れないでいただけましたらこの上ない幸いです」

慣れない都会を彷徨っていた孤独な人間に「清潔な、明かりの心地よい場所」を与えてくれたこの店を、私はきっと忘れないだろう。