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意味のない「雑談」ができなかった。

すこし前まで雑談ができなかった。

つまり「どうでもいい会話」ができなかった。

なので雑談を必要とするような人間関係をうまく築けずに、ひとところに長くいられなかった。

そのせいで同じ会社で長く働くことができず、1年くらいいると心も身体も息苦しくなってしまい辞めざるをえなかったのだ。

雑談ができないというのは実はとても厄介だ。


たとえば、あなたが会社の後輩に「最近どう?」と声をかけたときに相手が硬直して無言になったらどう思うだろう。

あなたは相手の体調が悪いのか、何かあったのかと心配するかもしれない。しかしそれが何度も重なれば愛想のない人間か、よっぽどの変わり者だと思うだろう。

私はその後輩だった。

「最近どう?」と言われると私は頭が真っ白になってしまい、顔は赤面してうまく言葉がでなくなってしまった。何かを言わねばと焦るのに何も言えないのだ。

しだいに、なんでもない会話を持ちかけられることがどんどん怖くなり、人間関係も疎遠になってしまう。


なぜそうなるかといえば、「意味がない会話」ができなかったからだ。

「最近どう?」という問いには意味なんてほぼない。

意味がない問いかけに、意味がない言葉を意識的に返す。

これが、できないのだ。

私たちの多くが行っている会話には意味なんてほとんどないだろう。頭をひねりながら言葉を慎重に選ぶ会話なんて日常ではほとんどないはずだ。

だけれど、世の中には「意味がない」言葉を発することができない人がいる。


私の場合、それができなかった理由はひとつ。

「それどころじゃなかった」からだ。

たとえば、今日食べるものにも困る人が明日の装いに合わせる帽子のことなんて考えられるだろうか。

物理的に深刻な状況であれば分かりやすいけれど、精神的に深刻な状況だって間違いなく存在する。

精神的に今日を生きることすら困難な人にとって、雑談というのは手の届かない贅沢品なのだ。


今でこそどうでもいい会話ができるようになったけれど、それができるようになるまでには時間と努力が必要だった。

心理学者の河合隼雄はこのように言っている。

「深いところにつかまってしまうと、浅いことができなくなる。わかりますか。ところが、その深いことがちょっとわかってくると、今度は浅いこともおもしろいとなる。これが大事なところなんですね」

自分の内面の深いところにつかまってしまうと、まず他人とうまく話せなくなる。それは何歳になっても起こりうることだと思う。

そんな場合、やるべきことはとにかく「よく生きる」ことなんじゃないかと思う。

毎日を「よく生きる」こと。生きるとは深いようで浅くて、そして無意味なようで意味のあることなのだ。

そんな、深さと浅さ、意味性と無意味性のなかで揺らぎながらとにかく日々を「生きる」。これを繰り返すことで自分のなかでたしかに重なり、溜まっていくものがある。

何か月なのか何年なのかは分からないけれど、とにかく日々の「生きる」を重ねていくとと自分自身に重さが生まれて、軽くて浅い「どうでもいい話」ができるようになる。

それができなかった私は、いま「どうでもいい会話」ができることがとても嬉しい。ほんとうに嬉しい。

秋めいた季節に合わせて帽子を選ぶことなんて、たしかに馬鹿げていて無意味だ。だけれど、そんな意味のない浅いことを「おもしろい」と思えるのはなかなかわるくない。ほんとうに、わるくないのだ。