見出し画像

男は無理してかっこつけ、女は背中を追わせたがる世の常

先日、今は友人となった昔の恋人に映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)をおすすめされたので観てみた。

彼とは映画や本の好みが似ているから、きっとおもしろいのだろうと期待して観た。

観たあと、私はすこし考えこんだ。

全然おもしろくない。

そう思ったからだ。

いや、でも彼がそこまでおすすめしてくるくらいなのだから、私が何かを見落としているに違いない。

そう思って、この映画の特筆すべき点を洗い出した。

・ワンカット風の撮影手法(これはたしかにおもしろい)

・物語の独自性(まあ、たしかにかなりユニークでオリジナルだ)

しかし、彼が「おもしろい」というとき、それは技術的なことではなくたしかに作品として「おもしろい」ということのはずだ。

それからの数日これについて考えていたところ、よく行く喫茶店で突然答えが出た。

いつも通り喫茶店でコーヒーを飲んでいると、BGMで沢田研二の『勝手にしやがれ』が流れてきたのだ。

それを片耳で聴きながら私はこう思った。

どうして男の人ってかっこつけたがるのかしら。もうすこし素直になってくれたら終わらないですんだ恋もあったのに。云々。

そしてハッとした。

ああ、そうか。

「raison d'être(レゾンデートル)だ」、と。

レゾンデートルは存在理由、存在価値と訳されるけれど、要は「俺がこの世に存在していることの証明」みたいなところだろう。

なぜ「俺」と書いたかというと、これがもっぱら男性の問題だと私は思っているからだ。

というのも、女性はあまり自分の存在自体の脆弱性みたいなことで悩むことはないように思う。

先の映画についていえば、主題そのものが主人公のレゾンデートルをめぐる葛藤なのだ。

かつてはハリウッドで大成功した俳優が今やすっかり落ち目の初老役者となり、再起をかけて舞台に挑む。

俺はこんなところで終わる役者ではないはずだ、俺はもっと上に飛び立てるはずだ。

主人公が抱える肥大した「自己」と現実の自分自身とのズレが生む葛藤が、この物語を進めるエネルギーだ。


さて、私は映画を観たことを元彼に電話で告げた。あまり面白くなかったというと、彼はすこし残念そうだった。

多分私は男の人のレゾンデートル的不安に共感できないのだと思う。その根源的不安への共感が、この映画のミソなんじゃないかしら。

そう伝えると、彼は電話口の向こうで考え深そうにたしかにそうかもしれないとつぶやいていた。

ついでに私はこれも尋ねた。

「ねえ、どうして男の人はかっこつけたがるの? 沢田研二だって、かっこつけて寝たふりなんかしてないで好きなら彼女を追いかければいいのに」

彼はすこし間をおいて、こう答えた。

「ほんとうは『行かないで』って喉元まで出てるんだと思うよ。ただ、やっぱりそれを言ったら沢田研二じゃないじゃない」

私は思わず電話口でひとり頷いてしまった。

男女はどこまでいっても違う生き物なのだろう。無理してかっこつけたがる男がいれば、そんな男に背中を追わせたがる女もいる。

意地を張って素直になれないのはお互い様か。

まあでも自分の両親を思い出せば、長い人生につい意地を張ってしまう相手が一人いるのもそれはそれで喜ばしいことなのかもしれない。