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愛なんて信じた者勝ちだ

先日、映画『怒り』を観た。

多層的な物語構成だから、色んな解釈があるだろうけれど(解釈の余地が大きいというのは優れた物語の資質のひとつだ)私は「愛すること」について考えこんだ。

愛することの難しさ、とでもいうべきか。

『怒り』のなかで、ある男性は好きな相手に心を許せないでいる。またある女性は大事にすべき人をうまく大事にできない。愛を前に彼らは苦悩する。

食べる、走る、眠ると同じように愛するというのは能動的な行為であるはずなのに、私たちはどうしてこんなに愛することが下手なのだろうか。

空腹時にからあげがあれば食べるのに、愛すべき人が目の前にいてもなぜ私たちは相手をうまく愛せないのだろう。

自分が、そして相手が同じ弱い人間だから、というのがひとつの理由だと思う。

というのも、誰かを愛せばその相手は自分をひどく傷つけうる人になる。心の大きな部分を許した相手に裏切られようものなら、たまったものじゃない。

過去がある大人ほど弱気になって不用意なケガを避けようとするのは当然といえば当然だ。その結果、自分が傷つくのが怖くてうまく相手に心を許せなくなる。


『村上ラヂオ』というエッセイのなかで村上春樹さんが長嶋茂雄元監督にまつわる小話を紹介している。

村上さんによれば、長嶋さんは肉離れのことを「ミート・グッドバイ」と呼んでいたり、「わたしは選手のことを信頼していますが、信用はしていません」などと言っていたそうだ。そしてこう結ぶ。

人を信頼しながらも信用しきれない人生というのも、ときとして孤独なものだ。そういう微妙なすきま、乖離のようなものが痛みをもたらし、僕らを眠らせない夜もあるだろう。でも「大丈夫、こんなのただのミート・グッバイじゃないか」とか思えば、ひょっとして明るく耐えていけるかもしれないですね。

私たちも、恋人やパートナーを信頼しつつも信用できないことが多いのではないだろうか。

誰かを信用するというのは簡単なことじゃない。そこに恋慕の情が絡めば、自分の心を守ろうするのも無理はない。

だけど、それは相手も同じこと。

相手だって怖いのだ。怖いけれど目の前にいるあなたを愛したくて、信用したくてたまらないのだ。

愛すべき人をうまく愛せない孤独を抱えながら、痛みで眠れない夜を過ごしているのはお互い様だ。みんなそんなに強くない。


童謡『にんげんっていいな』のなかに「くまの子みていたかくれんぼ、おしりを出した子一等賞」という歌詞がある。

私はこの歌詞がとても好きだ。

自分を含め、大人になると愛を前に弱腰のかくれんぼをする人が多いように思う。だけど誰かを本気で好きになったのならなかなかスマートではいられない。

大人ぶるのはやめて、好きな相手の前くらい心をはだかんぼうにしてもいいのではないだろうか。誰かに笑われたって、どんなに傷ついたって愛なんて信じた者勝ちだ。

どうでもいい人間に馬鹿にされようと、心に大ケガをしようと、愛に怯えて一生を終えるより遥かに豊かな人生になるのは間違いないのだから。