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うつ病とアニミズム

私が最初にうつを発症したのは、社会人になって5年目くらいのことでした。目標を達成できないダメ営業だった私は、部署異動によって事務職となり、「今度こそ周りの人の役に立たなくては、自分の居場所が無くなってしまう!」という強迫観念のもと、過剰な頑張り方をして心身のバランスを崩したのが原因だったのかなと思います。はじめは体調不良で会社を休みがちになり、身体が重たくて出社することもできなくなった頃に、休職して実家に戻り療養生活を送ることになりました。
1日に20時間近く寝て、1日に1食、食べるか食べないかという暮らし。眠りから覚めて意識が浮上してくると、いつも無性に悲しくなって、自分が情けなくて、ひたすらに泣いていました。
「自分のような社会不適合者が社会に出ようとしたこと自体、そもそも間違いだったんだ……自分には分不相応なことだったんだ……」
そんなことを考えては身体を震わせ涙を流していました。
そんな時期に、淡々と傍にいてくれたのが母でした。私の寝ている和室を時折訪れては「どう?ご飯食べる?」「そう、もう少し寝る?」とわずかな言葉をかけて、私が泣いていると、ただ黙って頭を繰り返し撫でてくれました。なんの生産性も無く、役に立つどころかむしろ家族の負担にさえなっていると、自分を責めていた私の頭を、何も言わずにただ繰り返し撫でていた母。その手の温かさと、何度も何度も髪をくしけずる指の感触が、あの頃の私を生き延びさせたのでした。母の手から伝わってくる何かが、何の役に立たなくても、自分がここに存在していていいのだと、教えてくれたのです。

最初のうつ病が治ってからも、自分の心の中のどこかで自己不信の種が息づいているのをずっと感じていました。自分は本来、この地上のどこにも居場所のない存在だ。だから、自分を律して周囲の期待に応えていなければ、人の社会に居ることはできない。そう思いながら、転職とうつ病を繰り返して生きていました。自分を知り、自分の精神をもっと上手に扱えるようになりたいと、NLP(神経言語プログラミング)という脳と心の取扱を学ぶ講座を受講したり、自分の心の内側を探求する内省のための対話型ワークショップに参加したりしました。
そんな風に自分の取り扱い方を模索していた頃、ある講座の合宿ワークショップに参加するため、私は山梨県を訪れました。他の参加者よりも遅れて塩山駅に到着した私は、保養施設の送迎の車に一人ちょこんと座らせてもらって、車に揺られながら日が沈んだばかりの山の稜線を窓から眺めていました。太陽はすでに山の向こう側に隠れています。でも、強い光がキラキラと山の輪郭を飾って、くっきりと浮かび上がる山なみが一段と綺麗に見えました。なぜだか涙が出ました。煌めく西日と山々が私に何かを語りかけている。それが何か、わからない。けれど、私は何かを思い出さなければ!どうしてこんなに長い間、自分はこの感覚を忘れてしまっていたんだろう?だんだんと暮れていく夕景の山を見送りながら、もどかしい焦燥感と共に私はひとつのことを理解しました。私という生きものは、山や自然に触れているという感覚を切実に必要としていたのです。
この合宿以降、私は、自分の取り扱いが少しだけ上手になったような気がします。自然に飢えている感覚がある時には、東京を離れて旅に出る。東京を離れるのが難しい時は、都立の日本庭園や神社の杜など、近くであっても大樹の気配を感じられる場所へ自ら行く。そんな風に自分が必要としているものを自覚し、自分から行動することができるようになったのでした。

うつという病の要因は、人によってそれぞれ異なるだろうと思います。それでも、そこに何らかの共通性はあるような気がします。私は自分自身のうつ病後の経験から、それは「発揮されたがっている才能が発揮されていない時に病となって現れる」という現象なのではないかと思っています。才能を発揮できない事情も人によって様々でしょう。自分に自信が無いからとか、幼いころに夢を打ち砕く言葉を刷り込まれてしまったからだとか、周囲の人間関係に配慮した結果、自分のわがままを通すべきでないと思い込んでいるとか。それでも、その人の内側にある才能が外へ出て発揮されたがっている時、抑え込みようのない力強いパワーが、その人の人生軌道を強制的に転換させようと起こすのがうつ病ではないかと感じています。
そして、自然界のものを観察することは、うつの精神状態にとっての救いや癒しとなりえると思っています。少なくとも、私にとっては癒しそのものでした。なぜかというと、自然界のものはみな、自然体の姿でそこに在るからです。彼らは不自然なことをしない。言葉遊びのようですが、本当にそうとしか言いようがないのです。そういう姿や生態を観察していると、自分自身や人間社会の中にある不自然を嗅ぎ分けるセンサーが育ってきます。自分の中の不自然を少しずつ解消していくと、自然と才能が発揮されてくる。私の人生に起こったのは、そんな流れなのだと思います。
なにより、自然界のものは私に何も期待しません(笑)。病的なまでに他者の期待に応えようとしてしまっていた私でも、無い期待に応えることはできない。そうすると私なりの自然体でそこに居る他、できることはないのです。そうして過ごしていくうちに、身体も心もラクになっていきました。自分ではない何者かに頑張ってなろうとする必要が無いので、当たり前といえば当たり前です。さらに、山の静けさを通って響いてくる鳥の声や、風が木々の葉を揺らす音、遠く上空を通り過ぎていく飛行機の音などと共に、世界に耳を澄ませていると、自分の周りにある存在たちがありのままの私を受け容れてくれているかのような、私がありのままでいられることを喜んでくれているかのような、そんな気がしてくるのです。それはうつ病のどん底の日々に私の髪を撫でてくれた母の手から感じたものと、同じ感覚。私がただ私であるだけで、存在を全肯定されているような安心感でした。

私の自然を信じるという道は、こんな風にスタートしたのでした。そして、自然の力強さを感じられる場所をあちこち旅するうちに、「自然信仰=アニミズム」と呼ばれる考え方と出会い、自分の体験や感覚と本で学ぶ知識をすり合わせながら、今こうして皆さんに探求の旅にお付き合いいただいているわけなのです。

うつ病とアニミズム2へ続く。


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