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うつ病とアニミズム2

アニミズムはうつ病の癒しになりえるのか?そこに、もうひとつ観点を加えてみるならば、存在を感じる、という言葉になるでしょうか。まずは、私自身の経験から、お伝えしてみましょう。

私のうつ病の種となったものは、おそらく他者の存在を感じることへの疲れだったろうと思います。他人の目に自分がどう映っているのか。ちゃんと役に立つ人材だと思ってもらえているだろうか。いつかお前など不要だと言われてしまったらどうしよう……。そんなことが気になって気になって仕方がなかったのです。そうして、夜遅くまで働いたり、能力的に処理困難な仕事を自ら引き受けたりするうちに、身体も心もどんどん不健康になりました。寝不足で重たい身体。ぼーっとする頭を無理やり稼働させるため、一瞬もきらすことができないコーヒーの苦さ。不安から起こるミスと、ミスを起こさないように何十回も確認作業をしてもまだ収まらない不安。おなかがすいても、もうひと仕事を終えるまではと夕食のタイミングを逃し、終電で帰宅してドカ食いするコンビニご飯。翌日の仕事のことで頭がいっぱいで眠れない夜と重たい朝の無限ループ。精神的に落ち着いている今は、思い出してみても多忙な日々がただ懐かしいだけなのですが、当時はとても苦しくて、苦しさを感じるセンサーを切ってしまいたい、この苦しい現実世界とは違うところへ行きたいと、むさぼるように漫画や深夜アニメなどの架空のストーリーを消費していました。
そうなってくると、私自身のものの考え方も極端に歪んでくるのです。私、あの人に無能で邪魔だと思われている……自分はこの部署のお荷物だ……そもそも、本来この世に私は必要ないんじゃないだろうか……。ネガティブ誇大妄想は、どんどん重くなっていきます。そして、だんだんと他人の目そのものが恐ろしくなっていたのです。私を見る人すべての目が「なぜお前がここにいるんだ?」「役立たずは早く居なくなればいいのに」と言っているかのように。もちろん、そうした考えは私の妄想であって、周囲の人が実際に思っていたこととは全く無関係です。でも、一度そういうネガティブ思考の渦にはまってしまうと、他の人から「そんなことないよ」と否定してもらっても、もう素直には受け取れないのですね。他者の存在がただひたすらに恐ろしいだけ。そして、この世のあらゆるものごとから自分を遮断してしまいたいという無意識の思いが、眠気と身体のだるさとなって私を社会的に機能停止させたのでした。
こうしたどん底の精神状態の私を支えてくれたのは、前述のとおり母をはじめとする家族でした。私を愛し庇護してくれる家族がいたことは、本当に私の幸運だったと思います。そして、被害妄想気味で他者が恐ろしくて仕方がない状態の私でも、血がつながり気持ちの通った家族だけは、怖くはなかったのです。申し訳ない、情けないと涙を流すことはあっても、恐ろしくはなかった。家族がそばにいてくれるこの空間では安心していいのだと、心の奥底で信じていたのでしょう。ただそばにいてくれる人の存在を感じていること、それ自体がうつから抜け出す癒しの最初の一歩だったように思います。
私にとって難しかったのは、ここから先でした。家から一歩でも外に出れば、いたるところにあの、私を精神攻撃する「他人の目」というやつがあるのですから。はじめのうちは、心療内科へ通う月1回の外出でも、気持ちが沈みました。精一杯に心を鎧って、他の人のことを見ないように気にしないようにと念じながら、誰にも気づかれませんようにと祈りながら、自分の存在の気配を殺すように歩いていました。それでも何度か外出を繰り返せば、その恐ろしさには少しずつ慣れるものなのです。自分なりにちょっとした工夫をするようにもなりました。イヤホンで音楽を聴いていると、見えている世界とは違う場所、音楽が連れ出してくれる異世界に自分が居るような気がして、無防備な聴覚を外界にさらしている時よりも安心することに気づいたのです。イヤホンをすれば実家周辺くらいは散歩できるようになり、このエリアなら前職の会社の人などは居るはずが無いから大丈夫だと少し遠出できるようになり、習い事ならば利害関係は発生しないだろうから大丈夫だと中国語教室に通えるようになり。条件付きで、少しずつ少しずつ、人間社会への復帰を果たそうとしたのでした。

そこからは、順調に回復していったように表面的には思われていたでしょう。しかし、本当のところでは「他人の目が怖い」「人間は恐ろしい」「精神的に鎧を着ることなく、この恐ろしい世界を歩くことなどできない」という思いが常に付き纏い、ふとした時にやはり、不安の波、うつの波が押し寄せてきました。いったいいつになったら私はこの不安から完全に立ち直れるんだろう?そんな風に思っていました。そんな恐ろしい世界ではないところへ私を連れ出してくれたのが、自然界の存在たちでした。
念のためお伝えしておくと、私は、妖精も神さまも幽霊も見えません(笑)。そういうお話ではないのです。それでも、夕日の沈む山を見て、涙が出ました。風に揺れる木々の葉っぱを見て、胸がじーんと温かくなりました。岩に座ってうたいながら上空の雲を見れば、身体から自然と力が抜けて普段よりもよく通る声が出てきました。山や、風や、木や、雲の、存在を感じるということ。そこに誰かがいる、何かが宿っていると信じること。それ自体が、私を励まし、感動させ、元気にしてくれるならば、それが本当かどうかなんて関係ない、そう信じてみよう。そう思えた時にやっと、私にとってこの世界は恐ろしいだけのものではなくなったのでした。風で葉っぱが揺れていたら「誰かが私に手を振っているんだな」と思うことにする。アスファルトの道路で朝日をキラキラ反射する光の粒を見つけたら「誰かが私に素敵な信号を送ってきてくれた!」と思うことにする。そういう世界観で生きていこうと勝手に決めたのです。そんな風に世界を観ると決めてから、私はようやくわかりはじめました。何の利害も思惑も無く、ただそばに居てくれる存在を感じていることが、どれほど心強いのかということを。生きていていいんだ。私は望まれてここに居るんだ。そう思えることが、どれだけ私の生命を強くするのかを。そして、生まれ変わったかのように、私の人生はそれまでと違う方向へと進み始めたのでした。

思うに、うつ病を発症した方々に共通するのは、この「存在を感じる」という能力なのではないでしょうか。感じる力ゆえにうつ病になるわけですが、その人本来の姿に向いている使い方をすれば、そのまま才能として現れる力です。うつという病は天性のギフトの顕れであって、「その力、使う方向が違ってるよー」というお知らせのようなものだと思うのですね。そして、人との関係の中で精神的な疲れを負ってしまった方には、その力を自然界のものへ向けてみることを、ぜひともお勧めしたいのです。
私の経験上、自然から与えられるものには過不足がありません。人はよく、余計なお世話を焼いてしまいます。私も、ありがた迷惑なアドバイスを友人たちにしょっちゅうしてしまいます。ひょっとしたら、この文章もその一部かもしれません。でも、自然というのはよくできたもので、なぜだかそういうことが起こらないのです。必要なものごとを必要な分量で送ってきてくれます。私のご紹介する旅のストーリーは、そんな風に自然の世界から私へと贈られてきたものたちなのです。

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