『保育園落ちた、吉田死ね』を半ば真面目に考察する
ごきげんよう。社会の水垢です。
本日は、水中、それは苦しいの2024森道出演を勝手に記念して、彼らの代表作であり名曲(迷曲)『保育園落ちた、吉田死ね』について考察していきたいと思います。
まずは、曲をお聴きください。
音楽の可能性を感じますね。
歌詞は↓です。営利目的じゃないので載せさせてください。すみません。
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皆さんご存知かと思いますが、「保育園落ちた」というのははてな匿名ダイアリーに掲載された「保育園落ちた日本死ね!!」という記事の見出しから来ています。待機児童問題を批判している強烈なコピー(?)として有名です。
そして、「吉田」。これは、水中、それは苦しいのドラムであるアナーキー吉田を指していることは明白ですね。
可哀想な吉田は、この世で起こりうる全ての不幸の所由とされ、15回に渡って至ってシンプルな悪罵を浴びせられました。
大切なメンバーの吉田を犠牲にしてまでこのバンドが伝えたかったメッセージとは一体何なのか?
それを考える前に、この歌の主題を明らかにしておきましょう。『保育園落ちた、吉田死ね』の主題…それは、安部公房やフランツ・カフカの作品のテーマにも通ずる、人類に常に付きまとう一種の呪い、我々を苦しめ続ける神の過ち、「不条理」ではないでしょうか。
ないでしょうか…なんて言わなくとも、この歌の主題が不条理なのは明らかです。ナンバーガールのチケットが当たらないのも、透明少女が見えないのも、保育園落ちたのも、その他諸々も、不条理です。全部不条理。この歌に限らず、我々に降りかかってくるもの全てが道理にかなっていません。筋道が通っていません。理解できません。納得できません。我々が生きている間経験したこと全てが不条理の具現化なんじゃないかと錯覚するぐらいには、この世には不条理が多すぎます。実際、吉田は全く筋道が通っていないにも関わらず、「死ね」という悪口の中でもチクチク度上位にランクインしている言葉を吐かれました。世の中そんなもんです。
不条理…。それは常に、我々を苦しめます。この世のゴミ溜めTwitterを見てみれば、それは一目瞭然です。ちょっと燃えてる事象について覗いてみると、そこに広がるのは罵詈雑言のパラダイス(🏝️🌺🪸)。カスとか低脳とかのシンプルなものから「◯◯ヲタはカルト信者!◯◯もそのヲタも社会の欠陥品でしかない癖に盲目に騒ぎまくってるのがキツいわーw」のような一生懸命なものまで幅広く取り揃えられています。書いているだけで苦しくゥ…。でも、そのような罵詈雑言を浴びせている方々も、一歩インターネッツから外へ踏み出したら、ちいかわ的語彙を持ちながらちいさくもかわいくもない感じの、そんな人間になっちゃうんでしょう。
…そうです。彼ら(ちいかわ的語彙のものたち)は、社会においては吉田なんです。相手が勝手にオリンピックのチケットを外しただけなのに、死ねと言われる存在なんです。もうちょっとわかりやすく言うと、必死に働いているのに、勉強してるのに、報われない。それどころか、生まれた環境が良かっただけで、どう考えても自分より努力してないような人が成功している、そんな感じ。吉田は不条理の1番の被害者なんです。都営住宅も区営住宅も当たらないのは、確かに不条理です。東京都内に住めないのも、確かに不条理です。でも、それで急に矛先を向けられて死ねと言われる吉田はその恒河沙倍は不条理でしょう。
ですが、インターネッツになるとその立場は一変します。彼らは吉田的存在に「死ね」と言う側になります。保育園落ちた側になるのです。
彼ら(保育園落ちた側、ちいかわ的語彙のものたち)が社会で経験していることは、吉田にとっては他人事です。彼らが開会式に出られなかろうが、閉会式に出られなかろうが、知りません。勝手に不条理味わっとけ、といった次第なはずです。ですが、吉田は彼らに死ねと言われます。しかも、吉田は何も説明されません。「俺はストレス溜まってるからお前に死ねと言いたいんだよ」とか、相手は言ってくれません。吉田は何も知らないまま、死ねと言われます。
なんということでしょう。インターネッツ。吉田だったはずの者が、吉田をいじめています。
この歌は、このような人間の危うさー匿名の世界においては、不条理の被害者はいつでも加害者になってしまうーということを、たっぷりの皮肉を込めて我々に伝えてくれているのではないでしょうか。インターネッツでの誹謗中傷が問題視される昨今…。ただ誹謗中傷する人を批判するのではなく、彼らのもう一つの側面を描くことでより立体的にその実態を浮かび上がらせる手法は見事です。吉田以外の人間を全く傷つけていません。高度としか言いようがないですね。
と、いうことを鑑みながらもう一度歌を聴くと、本当に心に沁みます。“水中”の優しい言葉たちが、私を包み込んでくれます。
ここの歌詞。これまで吉田死ねを連呼していたのが、打って変わって「あの子を〇〇できるのはおまえだけ」の形式に変わります。
吉田にしかできないことを歌う。それは、ただ[暴言を浴びせられる存在]でしかなかった吉田を精神を持つひとりの人間として見つめなおすということになります。
インターネッツに蔓延る数多の罵詈雑言。それを吐くのも、吐かれるのも“物”ではありません。人間です。匿名で呟けるインターネッツは、我々に癒しを与えることもありますが、画面の向こうにいる“人間”としての誰かを想像させないという特性を持ちます。なにも考えず好き勝手言えてしまうのです。それで傷つく人がいるのも知らずに。
この歌は、好き勝手言ってしまう人と言われてしまう人両方を血の通った人間として見ています。保育園落ちたという言葉は、常に不条理に苦しめられる我々人類に寄り添った言葉です。そして「吉田死ね」は、どの人類だって不条理の被害者なのに、不条理を与える加害者側に回ってしまうその愚かさを表現しています。この言葉によって、我々は我々を客観視することができるのです。
このことは、歌の終盤に登場する歌詞にも如実に表れています。
みんな愚かです。みんな、吉田を傷つけます。そして吉田を傷つける者たちは、吉田(傷つけられる側)にもなります。
吉田というのは、「不条理」のアレゴリーです。この歌詞は、全員が自らの愚かさを受け入れて客観視するべきである、ということを呼びかけているのです。
「新しい名前を覚えたいだけなのに!」これは、“吉田”としてこの歌で歌われていた人たちへのエールと捉えることができます。吉田と呼ばれ、歌の中で個性を与えられなかった不特定多数の人々のことをもっと知りたい、“吉田”ではない、ひとりひとりの個性を見せてくれ、そんな風に聴こえるのです。それは、インターネッツという世界に囚われ、自らに個性を見出すことも他人に個性を見出すこともやめてしまった人類たちへの自己の抑圧からの脱出を後押しする“水中”なりの叱咤激励なのです。
ンンンなんて暖かい歌なんだっ…!
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MVの最後、怒涛のしょうもな悪口ラッシュ。
これは、我々がインターネッツで目指すべき姿なのではないでしょうか。
皆で称え合いながら生きることは不可能です。みんな吉田でみんなやだ、なので。ですが、この歌のように、このMVのラストのしょうもな悪口ラッシュのように、ユーモアに満ちた世界を実現することは、決して不可能ではないのではないでしょうか。というか、可能です。目指しましょう、軽口たたき合って笑い合える、そんな世界を。不条理という覆せない運命によって分断されるのではなく、不条理を共に笑い飛ばす世界を。
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筆者だいすきな“水中”の森道でのライブ。この↓動画最初の、ボーカルジョニー大蔵大臣のMCは、この歌の本質を端的に、そして何よりも完璧に述べたものになっています。
不条理に揉まれ続ける人々、つまり吉田。吉田死ね、という言葉が連呼されるこの歌は、吉田生きろ、吉田生きろ、という“水中”の我々へのメッセージだったのです。
[吉田死ね]。一見バイオレンスに聞こえるこの言葉は、脱出不可能な「不条理」という無限迷路で闘い続ける人々の中に常に存在する、「吉田」という暗晦を笑いながら吹き飛ばしてくれる。そんな“救い”だったのではないでしょうか。
LOVE。PEACE。HAPPY。
吉田、生きろ。
それでは👋
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