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桜が苦手

ごきげんよう。社会の水垢です。今日はちょっと過激かも。

春爛漫のこの季節に大変申し上げにくいのですが、私は桜があまり好きではありません。勿論、桜を綺麗と思わないわけではないのです。見出しの写真も綺麗だなと思って撮ったものですしね。(deathと◯ねのコンボすみません)

ですが!!!

愛知(私の地元)では「史上最大の桜中継」だとか銘打って桜の名所を民放5局が大々的に宣伝していたり、コンビニもお菓子メーカーも桜系のお菓子をこぞって売っていたり、近所の公園はいつもガラガラなのに有名人でも来たかってぐらいこの時期だけ花見の客でいっぱいだったり。本屋もやれ桜だ別れだ恋愛だと言って、煌びやかな表紙の恋愛小説を手前のほうのコーナーで全面的に推しています。サクラサクラサクラ…。競走馬?

日本人がそこまで桜を愛する理由、正直私は全然わからないのです。春の訪れを告げる〜とか、優美でそれでいて儚くて〜とか言いますけど、うーん、イマイチおなかにストンと落ちない。

個人的に、桜を見るたびに引っ掛かるものがあります。それは、「人為」です。綺麗に舗装されたアスファルトの道沿いに、(あるいは川沿いに、)整えられたソメイヨシノ。明らかに人が植えたと分かります。桜から滲む、人工的な空気。「儚い」という、時の流れに委ねられた自然的なイメージとは、相反する気がしてしまいます。それがどうしても、無機質に、不自然に感じられてならないのです。

そして、桜から人工的な空気を感じるのには、桜という樹木自体以外にも理由があると思います。先に述べた、日本人の桜を愛する気質。TVも本もお菓子も何もかも、春になると桜に傾倒し出し、桜が商品化される。世の中が桜を人間のために使いすぎて、人間が桜を使いすぎて、桜に「人間」というイメージがこびりついてしまったのではないでしょうか。無論、私の中で、ですが。

結論をいうと、桜は植物、というか自然のもの特有の「主張」がなさすぎる、というのが私が桜を好きになれない理由なのだと思います。お行儀が良すぎて気味が悪い子どものような…。洗練された部屋特有の緊張感のような…。あらかじめ人間の存在を全体にしている生き物というのが、どうにも奇妙に感じられてしまうのです。自然の「主張」がどういうものか、わかっていただけますでしょうか。
こういうのです↓

桜の根元に咲くヤハズエンドウたち

生き物に宿るとにかく生きよう、生きてやろう、という強い意志。気持ちが下がりがちな春にこそそういうものを求めてしまうよね、という雑草、鬱蒼、武井壮が好きな人間の独り言でした。
おしまい。

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