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【思い出】女医者に「神社でお参りすれば治る」と言われた話

私が小学校の頃の話です。

小学生の頃の私は、心身共に元気な子どもでした。

まぁ、元気すぎて「島のヤバい奴」から目をつけられることも度々ありました。

どれだけヤバいのかは、以下の記事を見てください。

このように、たまに苦労もありましたが、おおむね元気な子どもでした。

もちろん、元気といっても病気にかかることはありました。

発熱、インフルエンザ、骨折などなど。

しかし、私の島にいる優秀な医者は、私の病気や怪我を全て治してくれました。

私たち島民と医者との間には深い信頼関係がありました。

私も「すごいお医者さんたち」を心から尊敬していました。


ある冬の日でした。

私はずっと気になっていたことを母に告げました。

気になっていたことと言うのは、「私の腕に謎の発疹があること」でした。

私の肘にいくつかの発疹ができており、それは何ヶ月間も続いていました。

痛みや違和感はありません。

しかし、さすがに何ヶ月間も腫れていては、肝の据わった私でさえ「ヤバいんじゃね?」と動揺をあらわにしました。

私が母に打ち明けると、次の日に病院で診察してもらうことになりました。

私は病院に全幅の信頼を寄せていたので、飛び跳ねるように喜びました。

医者に治せないものなどありません。

これでようやく治る!

私は心から安堵しました。


次の日の夕方頃、私は病院に到着しました。

病院というのはひどく陰気なものでした。

青白いライトが白い壁に反射し、どこか死の気配を漂わせていました。

受付前に座っているおじいさん・おばあさんはどこまでも無表情でした。

300年くらい換気をしてないかのように、空気が死んでいました。

私はそんな冷たい空気を大きく吸い、身体の緊張をほぐそうとしました。

それもそのはず。

もしかしたら私の肘は重大な病気を抱えているかもしれないのです。

この謎の病気のせいで死んでしまうかもしれないのです。

そう思うと、肺が締め付けられて息苦しくなりました。

受付を終えて、私は診察室の前に座っていました。

名前を呼ばれるのをうなだれて待っていました。

まるで罪状を宣告される囚人のような気持ちでした。

数分待つと、目の前の扉がガチャッと音を立てました。

扉が開き、女性看護師がこちらを覗き込んでいました。

「〇〇さん、診察室にお入りください。」

私は驚いたように立ち上がり、ぎこちない動きで開かれた室内へと入っていきました。

そこには、一人の女医者が座っていました。


「腫れた箇所を見せてくれるかな?」

目の前の女性は言いました。

その人は、離島には珍しい女性の医者でした。

しかも、医者には珍しい陽気そうな人でした。

私はそっと肘を出し、発疹のあるところを見せました。

彼女はふむふむとぼやきながら、腕の辺りをまじまじと観察しました。

「痛みとかある?」

「ないです」

「違和感は?」

「ないです」

「・・・はい。全部分かりました。」

え?

もう?

私は驚愕しました。

この一瞬で、私のこの病気が何なのかを全部把握したというのです。

私は畏敬の念すら感じました。

あまりの凄さに「これが本当に人間の技?」と疑ってしまうほどでした。

私は神域の業を見た気がしました。

そして医者は、私に向かって言いました。

「神社に行こう。」

・・・ん?

なんだろう?

「神社に行ってお参りに行こう。そうしたら治るよ。」

私は驚愕しました。

科学と医療の絶対的存在が、私に「神社」という言葉を発したのです。

私は挑発されていると思いました。

どうしたら良いか分からず、とりあえず引きつった微笑みを浮かべました。

すると彼女は微笑み返し、私に言いました。

「それでは、お大事に^^」


何一つ腑に落ちないまま診察料を支払った私たちは、帰宅後も腑に落ちませんでした。

まさか病院に宗教の人がいるとは思いもしませんでした。

それも相手は医者です。

その後も悶々と日々を過ごしていましたが、気がついたら私の肘の発疹は消えていました。

あんなに長く続いていた腫れが消えたのです。

今思うと、あの言葉は「気にしなくてもいいよ」という意図を、医者がユーモラスに伝えただけだと理解できます。

そう思うと、なんと遊び心に富んだ素晴らしい医者なんだ! と改めて尊敬してしまいます。

ユーモアというのは、時空を超えて人の心を温かくする力があるようです。






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