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古典文学に見る季語の源流 第七回「七夕」

七夕は、暦の切り替えの影響を最も受けている季語の一つであろう。新暦の七月七日は盛夏の気分だが、これは秋の季語である。新暦と旧暦には約一ヶ月のずれがある上、昔は、一~三月が春、四~六月が夏……と三月(みつき)ごとに区切っていたため、七月七日は秋に当たるわけである。

天の川の両岸、わし座のアルタイルを牽牛(彦星)、こと座のベガを織女(織姫)と見立てる伝説はよく知られているが、そもそもこの伝説の発祥は中国だ。織女は仙女というのが元の設定である。仙女と人間が逢えるのは限られた日のみ、ということから、七月七日(陰陽五行説では、奇数が重なるのは特別な日)にだけ逢えるという悲しくも美しい恋物語となった。

古くは白楽天(白居易)の「長恨歌」で、玄宗皇帝と楊貴妃が、

天に在っては願はくは
比翼の鳥と作(な)らん
地に在っては願はくは
連理の枝と為らん

と愛を誓い合ったのも、七月七日の夜である。今日でも、中国では七月七日は「七夕情人節」と呼ばれ、男性から女性に贈り物をする、日本のバレンタインデーのような恋の行事となっている。

日本ではいつ七夕が広まったのであろうか。『日本書紀』には、持統天皇五年(六九二)の七月七日に宴会を催した記述があり、『万葉集』には、巻十、二〇三三番の歌の後に、「七夕の歌を庚辰(こうしん)の年に詠んだ」という記述がある。この庚辰は六八〇年であると見られ、七世紀末には、七夕が宮中で知られていたことが分かる。

なお、「たなばた」という読みは、織女が、それ以前から日本に存在していた「棚機(たなばた)つ女(め)」という語と結び付いたからである。五~六世紀に中国から当時最先端の織布技術として入ってきた高機(たかばた)が、棚機と呼ばれていた。

外国の行事や風習をアレンジして自文化に取り込むのは、日本のお家芸である。『万葉集』には一三〇首以上の七夕の和歌があるが、その中には、日本の神話世界と結び付けた歌が数首存在する。

天の川安(やす)の渡りに舟浮(う)けて秋立ち待つと妹(いも)に告げこそ
(万葉集、二〇〇〇、人麻呂歌集)

天の川の安の渡し場に舟を浮かべ、二人が逢える秋の日を立ったまま待ち続けている――どうか妻にそう伝えてくれないか。牽牛の身になって詠んだ歌であるが、この歌の「安」は『古事記』『日本書紀』に登場する高天原の川の名である。

奈良時代の半ばになると、七夕伝説の二星を祀り、手芸や技芸の上達を祈願する「乞巧奠(きこうでん)」が日本に入ってくる。孝謙天皇の七五五年、清涼殿の庭で乞巧奠が行われたという記録があるが、これが今日、短冊に願い事を書いたり、七月六日に硯洗いをしたりするルーツに当たる。

なお、天の川のことを「銀河」「銀漢」「天漢」と呼ぶこともある。これらは中国での呼び方である。

なぜ「漢」の字が入るかといえば、長江の支流・漢水(漢江)に関わる名前だからだ。漢水は陝西(せんせい)省 漢中(かんちゅう)市 寧強(ねいきょう)県にある嶓冢(はちよう)山を水源とし、東に流れて湖北(こほく)省に入り、武漢で長江に合流する川である。

湖北省北部では、夏になると天の川が北西の空に垂直に立ち上がるように見え、それが漢水の流れに映じ、まるで天の川と漢水がつながっているように見えるという。事態が落ち着いたら、ぜひその雄大な眺めを見てみたいものである。

*本コラムは結社誌『松の花』に連載しているものです。

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