あの人は今

「なんか最近、面白いことない?」
また始まった。急に機嫌が良くなると、誰かに話を振るんだから。
「そうですね…これと言ってないですね」
いつもはターゲットのようになじる癖に。あの人の返答は表面だけしか笑っていない。
「何かいいこととかありました?」
まぁ、それを付け加えるしかないよね。そして始まるマシンガン。それは全くわかり合えない嫌みであり、共感を強く求めるような話だった。そして、「そうなんですね」、「大変ですね」、「でも良かったですね」とスタンプのごとく決まった相づちが空っぽの歓声に投げられていた。

私は傍観者でしかなかった。あの人を救うことは出来なかった。どうせまもなくこの場を去るわけだったし、そうでなくてもとにかくターゲットを見つけなきゃ気がすまない上司に当たったことは、直接は言わなくても空気で互いに仕方ないこととして理解していた。そして、空気のように接するしかなかった。


それから何年経ったことだろうか。
私はまたこの場所に来ていた。久しぶりだからと言って郷愁はない。向かう場所は全く親しみのなかった場所でもあった。
会社のハラスメントについての調査が第三者機関も介入して始まった。通常なら内部の人間だけでも良かったのだが、念のためここ5年以内に退職したものも対象になったために、私は再び古巣に足を運ぶことになった。

面談は当時の労働環境から始まり、人間関係、そしてあの上司も話題に上がった。顔も名前も初めましての人が私以上に実情を知っているのは恐ろしかったけれど、どこか安堵して正直にパワハラやモラハラのことを話した。
あの人は私が辞めてから3ヶ月ほどして辞めていたこと、あの上司もその半年後に辞めていたことを風の噂で知っていた。上司は今回の調査の引き金になっているとも聞いていたし、あの人が窮地に追い込まれることもないだろう。どうせ、もうここには用はないし、と思いながら。
そして、あの上司の話になればあの人のことも話す。ふと、私はあの人が今どうしているのか気になった。しかし、それは個人情報になるからと教えてもらえなかった。

面談のあと、見覚えのある顔を見た。他の部署の人だが、確か私のいた部署と関わりのある人だった。社内でも評判がよく、そして上司はなぜか仲がいいと私たちにやけに自慢していた。個別にお土産を頼める仲だとか、よく帰りに一緒に飲みに行っているとか。上司のほうが立場も年齢も上だし、サシではなく誰かしら一緒だったわけだから、誰もが「へー、そうなんですかー。」と流していた。
ただ、私は引っ掛かっていた。上司よりも仲がいい人を知っていたからだ。その人物こそ、あの人なのだ。

「お久しぶりです」
声をかけると、以前と変わらない柔らかい笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。この人ならあの人の行方を教えてくれるかもしれない。あの人とは同期で、親しい関係だったはず。
季節の挨拶のように当たり障りなく近況を報告しあったあと、思いきって聞いてみた。

「はい、元気にしてますよ」

変わらぬ微笑みと同時に返ってきた答え。安心した。しかし、どこかに遠くに見えるしたり顔が気になる。
私は「よかったです」、「よろしくお伝えください」と笑みを浮かべてタイピングのようにそれらの言葉を出すのが精一杯だった。


「なんか最近、面白いことない?」
あれは私がここを去る2、3日前のことだっただろうか。いつものように上司の気まぐれが始まった。
「本とか映画とかでもいいんだよね~。ねぇ、なかった?」
唐突に私に視線が向けられ、「そうですね…特には」と笑って流した時だった。

「あれが面白かったですよ」

あの人が反応した。
「なになに?教えて~」
上司の機嫌は本当にいいらしい。興味津々、と言ったところだろうか。
「辻村深月の本なんですけど…なんだっけ。短編集で、名前が長くて」
「ああ!最近出たやつね!」
「まぁ、わりと最近ですね」
これで会話が終わると思った。

「読んだんですか?」

あの人が質問した。すると、そこにいたすべての人間が耳を立てるのがわかった。
「うん、読んだ読んだ」
なんだか軽い返事。きっとこのあとには「面白かったですよね~」とあの人が言って、「そうだね~」と上司が答えて終わるのだと、誰もが思っていた。

「どれが好きでしたか?」

話は続いた。ふと、上司の顔をちらっと見てみた。どこか困惑した顔だった。「どれって言われてもな~悩むな~」と、今度は上司が流そうとしていた。

「私は『パッとしない子』です」

助け船だったのだろうか。上司は「それが好きだったんだよ~!」と破顔一笑。もう会話が終わると安堵したのだろうか。

「へー、意外ですね。最初のものが好きなのかと思いました」

あの人は少し顔をほころばせながら、ぼそっと言葉を上司に投げた。「うん、あれも好きだったけど、やっぱりね~うん」と上司だけの納得の時間は終わった。


あのあと、私は気になって「辻村深月 パッとしない子 短編」を検索した。スクロールを何度かしたら、その本は見つかった。どこかメルヘンで可愛らしい表紙に惹かれ、読むことにした。
最初の短編は結婚式の話で、なんとなくあり得そうな話だった。会話を眺めるようで、傍観者のままでこの短編集が終わるものかと思った。しかし、それは違った。

次から次へと見せられる話は、だんだん体に刺さってくる針の位置が変わっていった。最初は指先を誤って少し刺さっていたはずなのに、いつの間にか心臓に、それも奥深くに実は前から刺さっていて痛みだすようだった。
気になったきっかけがあの上司とあの人の会話だ。『パッとしない子』を上げたあの人。そのことは今、上司にとって呪いや縛りになっているのだろうか。いや、きっと読んでいないと思われる反応だったから痛くも痒くもないのかもしれない。今はすでに忘れている会話かもしれないが、あの時しこりを感じながら会話をしていたのは間違いないだろう。


思えばあの短編集はブーメランのようだった。自ら投げていなくても知らずに投げていたり、否定しながらもどこかで投げ始めたのが自分のような話がまとめられていた気がする。ブーメランが見えたとき、当たったときに振り返らなければならないような痛みを伴う話が多かった。
ふと、この本の話を思い出したのは調査の帰りだからなのか。それもある。同時に、したり顔を感じた微笑みが脳内をちらつく。念のためとはいえ、外部の人間を入れた調査。もしかして…。

ざわざわと胸の奥が騒ぐ。まるで針を一気に落としてしまったかのように。そして、その上を歩かなければならないかのように。
きっと調査はもうじき終わるだろう。なんとなく面談時の相手の表情などからそんな気はした。裁かれるものが裁かれるはずだ。だから、もうここには来なくていいんだ。

「どうせ、もうここには用はないし」

今度は声に出して言った。自分を落ち着かせるために。もう振り返らなくていいんだとも。
今度こそ、ここから私は去るのだから。

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