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夏目漱石『行人』感想文

二郎と嫂が、嵐の中の暗闇の室内で相対する場面があります。僕はこの舞台からいくつか連想したことがあるので、以下にそのことを書きます。「“深淵”(暗闇)に落ちた男性を女性が救いだす」というモチーフは、小説では頻繁に使われていると思います。そのさいに、男性が深淵から救出されるかどうかは、作家たちによって違いが出る箇所です。たとえば漱石の『それから』では、物語終盤に代助は“赤の世界”(深淵)に陥りますが、三千代は代助の“赤の世界”と心中する覚悟がありました。安部公房の『密会』では、主人公が敵の罠にはまり、暗闇の病院で病気の少女と2人きりにされます。主人公は“暗闇”(深淵)で、少女を抱きしめながら精神を患っていく。こちらは男女が“深淵”に落とされてしまった結末です。

『行人』の「Hさんの手紙」でHさんは、「相手が若し私のようなものでなかったならば、兄さんは最後まで行かないうちに、純粋な気違として早く葬られ去ったに違ありません」と一郎を記述している箇所があります。夏目漱石は現代でも読み継がれていますが、その理由の1つは、漱石は人間のこころの正常と異常を探求して、それを丁寧に誠実に小説で表現しているからだと僕は思っています。

ひとがこころの病気に罹ったとしても、現代社会では、治療の進歩や心理、社会療法の発展、精神科や心療内科への敷居が低くなったこと、学生へのメンタルヘルスの教育、などで漸進的に病気が軽症化していると思います。なにが書きたいのかというと、おそらく現代ではこころの病気が軽症化しているため、漱石が読み継がれている根本原因が徐々に無くなっていることです。急いでつけ加えますが、僕はこのような社会の様相を肯定しています。ここで僕が書きたいことは、「不治の病」が文学作品に主題を提供しているということです。

たとえば戦前までの日本では、結核は不治の病でした。文学では結核を主軸にして、愛情と友情の大切さを唄う、「サナトリウム文学」があります。現代では、結核は限りなく治るようになり、結核が文学の主軸として使用されることが少なくなっています。同じようなことが、現代社会のこころの病気についてもいえると僕は思っています。


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