見出し画像

芥川龍之介『歯車』感想文

全体的感想

 “不治の病”がしばしば文学作品のメイン、サブテーマになると思います。過去の例ではペスト、結核、統合失調症など。現代では結核は治るようになり、統合失調症も限りなく治ること(寛解)ができます。現代では結核を文学作品の主題や装置としては、それほど使用しないと思います(おそらく治ることができるため)。
 アルベール・カミュの『ペスト』はペストを主軸にして、友愛と結束の大切さを描いています。堀辰雄の『風立ちぬ』は結核を主軸にして、愛情と性愛の大切さを描いています。芥川龍之介の『歯車』は統合失調症の症状を鋭く正確に描いています。この部分は良いです。

 しかし、この時代の「常識」から影響を受けて、この病気に対する偏見を助長している部分があります。『歯車』の、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」は、語り手ではなく語り手を苦しめている“症状”が、語り手に書かせていると思います。語り手の、「死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかった」は、語り手の“症状”が暴発してしまったときを指していると思います。

 『歯車』では後半になるほど“症状”が語り手の心に侵入していきます。そのため語り手はいろいろな技法で侵入を止めようとしています。僕は『歯車』は入れ子構造にして、作中のどこかで“症状”が治まっている(寛解している)語り手の場面を挿入すると、読者に闇が光になるような作用をもたらすのでは? と思っています。現代ではこの病気は寛解できるため、以上の装置は導入できるかもしれません。

細部的感想

 物語冒頭に、語り手は理髪店の主人と会話をしています。理髪店は客にとって髪を切るところで、理髪店の店員にとっては仕事をする所ですが、噂が飛び交うところでもあると思います。冒頭語り手が理髪店の主人と噂話をしているのは、著者が「理髪店の主人」を「噂」に詳しい人物として、物語舞台に配置したためだと思います。
 この時代の汽車には一等、二等、三等と等級がありますが、この物語ではそれらはあまり細部の仕掛けとして使用されていませんでした。ジブリ映画『風立ちぬ』とドストエフスキーの『白痴』では、列車の等級が細部的仕掛けとして活用されています。

 『歯車』では、自然の風景描写とモノの景観描写が、語り手の心理を「象徴」しています。この技法は、ほかの著者たちもよく用いています。「或何々」との描写が多いです。物語冒頭の第一段落の描写だけで、「或知り人」「或停車場」「或理髪店」として使用されています。語り手は緑色を見ると平和なこころになり、黄色を見ると不吉な感覚になっていました。
 語り手は或る女性を観たあとに、松林を思い出しています。また、或る人と女性の話をしたあとの夢のなかでも、松林を見ています。「松林」は、語り手と関係を持っている「或る女性」を表していると思います。

 著者は語り手の心象風景を規則性を持たせて描いています。たとえば語り手はカフェに入ると、隅や奥の椅子に座っていました。ストレスを感じたとき、歯車(閃輝暗点)が視え、病気の症状を振り払うためにか、神話と現実の自分を重ねています。体調や症状を落ち着かせるために本屋に寄ったり、気を紛らわせるために本を読んでいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?