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「インド」に起因するストレスの分析とその軽減方法-②

前回の投稿では、心理学のアプローチを用いて「インド」に起因するストレス反応が発生するプロセスを、①ストレッサー、②その認知、③ストレス反応、という三つの要素に分解した。この分析により、インドに起因するストレスを、「①公平・平等という倫理感が乏しいインド社会及びインド民に対して、②我々日本人は、自分達が至高だと信じていた倫理感が尊重されていないと「認知」してしまうため、③インドからストレスを感じてしまう」、と構造化できた。

次はこのインドストレスにどのような手法を用いて対応できるのかを考えてみる。これは心理学では「コーピング」と呼ばれる対応である。「インドイヤイヤ期」を一瞬で解決するような魔法はないが、体系的なコーピングを実践することにより、ストレッサーや認知に働きかけてストレス反応を軽減することが可能であり、実際に私自身もこれらを実践してきた。コーピング手法は三種類に分類することができ、以下ではその分類と具体的な方法を列挙する。

 
A)   問題焦点型コーピング(ストレッサーを減らす)
①  職場という限定領域を快適にする
②  自分でやる・組織でやる、選択を明確にする

B)    情動焦点型コーピング(「認知」の方法を工夫する)
①  「公平・平等」の普遍性を疑う
②  インド国内旅行によって多様なインドに出会う
③  本社とのコミュニケーション強化し、日本を感じて仕事をする

C)   ストレス解消型コーピング(発生済のストレスを解消する)
④  インド国外旅行をする
⑤  「途上国駐在8割ルール」を採用する
⑥  後任の充てを自ら探す
 
尚、具体的なコーピング手法に違いはあれど、このA,B,Cのフレームワーク自体はインドに限らずその他途上国で勤務する駐在員のストレス対策としても応用できるはずだ。


A.   問題焦点型コーピング

一つ目の問題焦点型コーピングは、ストレッサーそのものにアプローチして、問題となっているストレッサーを減らす、または削除することに努める方法である。インドストレスの場合、ストレッサーが「公平・平等が尊重されないインド社会及びインド民」という非常に大きなターゲットなので、この方法は採れないように見える。しかし、いくつかの具体的なアクションを採ることで、我々を取り囲むストレッサーを部分的に軽減することができる。

①  職場という限定領域を快適にする

インド全体の倫理観を修正することは、非現実的であることは明らかだ。我々は革命家ではないので、積み重なった社会と歴史を個人の力で変えることはできない。しかしながら、1日の大部分を過ごす職場という限定領域においては問題の根本にある倫理ベースを変更することが可能であり、その正当な権利もあると考えらえる。つまり、職場においては「公平・平等」に反するような行いや仕組みが発生したら、それに対して積極的な修正を加えていくことである。インド生活の半分以上の時間を過ごすことになる職場のストレッサーを軽減する効果は大きい。
 
まず何の工夫も努力もなく実践できる方法は、出退勤の管理と遅刻の厳罰化である。「着任の手引き」でも言及したが、遅刻を許さず厳罰に処すことで「時間」という測定可能で最も大切で誰にでも平等なものを尊重する意識改革を開始することができる。
次にできることは、人事評価を恐れず明瞭につけることである。もし、能力や成果が不十分であるにも関わらず高い評価がついている部下がいたら、その部下には現実的な評価を与え、成果を上げている部下には正当な評価を与えることを徹底する。インド民は自分の人事評価や給料を同僚に話す傾向にあるので、どのように評価を付けたのかは筒抜けである。もし不公平な評価を前任者が惰性でつけていれば、それを変えることで集団の意識を変えることができる。もちろん昇進や降格についても、信賞必罰を徹底したい。
さらに、チーム間のワークロードの不平等をなくすために、組織や人繰りに関しても見直しを行いたい。明らかに楽をしているような部署やチームがいれば負担が平準化されるように仕事や人員を見直さなければならない。インド民は自らが楽をしているときに、わざわざ隣のチームの仕事状況を見て負担を引き受けることはまず行わないので、管理者が調整しなければボトムアップによってアンバランスは解消されることはない。管理者として組織やワークロードの調整を行う時には、部分最適を志向するインド民部下に直面するかもしれないが、容赦なくトップダウンで実行していくのが肝だ。
 
以上のような制度面のみならず、いくつかの典型的なインド民の悪弊についても口うるさく注意していくことで「公平・平等」の精神を彼らに刻んでいくことができる。例えば、自分のミスを覆い隠して他人に責任転嫁するような言説は頻繁に目にする。これは典型的な不公平な行為なので、そのような動きをする者がいたら糾弾し、批判されるべきは間違いを認めない姿勢であると植え付ける必要がある。このような絶え間ない細かい指摘を経て少しずつ「公平・平等」の感覚を植え付け、本来操作不可能なインドという環境の一部を自分にとって快適に変えていく。これはただ単に日本人が過ごしやすくなるだけではない。インド民の部下が今後他のグローバルカンパニーに転職したり、インド全体の文化に変化があった場合への準備にもなるWin-Winな取り組みである。
 

②  自分でやる・組織でやる、選択を明確にする

インドに管理職という立場で赴任すれば、大小問わず組織を運営して成果を出すことが求められる。家事や育児など私生活においてもインドは様々な使用人との関わり合いがあり、これも組織運営の一つだ。そして仕事や生活を取り囲むこれらのインド民がストレッサーになる。
インド民と協業し、意味のある役割を個人に与え、チームの成果を最大化することが王道である一方で、極端な言い方をすれば、これらのインド民を自分の邪魔をする存在として、できるだけ彼らの影響を排除して自分の能力と馬力だけで仕事を進めるというやり方‘‘も‘‘ある。自分でやるのか、組織でやるのか、ベストミックスを自分なりに明確化し、選択していくことで、ストレッサーの量をコントロールすることができる。

一般的にはチームで成果を上げるように努力したほうがアウトプットが最大化されると思うのだが、途上国やインドの現実は必ずしもそうではない。インド民で構成された部下を統制し、自分が納得するクオリティの成果をあげることは並大抵の仕事ではない。何か間違いがあるとすぐに言い訳が始まるし、能力に見合わない謎の自信、チーム間のいざこざ、問題の隠蔽や先送り、ずさんな書類の記録管理は日常茶飯事。その一方で非常に限定的な一部分の知識だけ異様に発達していたり、口八丁手八丁は得意だったりする。こういった一般的特徴を持つインド民達を統制する時間と労力を内向きの仕事にかけるよりも、外にそのエネルギーを使った方がよいと考えることもできる。彼らに何かをやらせるリスクやストレスを採るよりも、自分一人や限定的なメンバーでハードワークしたほうがよいという判断もできるだろう。実際に高い成果を出している日本人駐在員を見ると、「自分でやる」、「組織でやる」という選択の間で、前者を選択している人が意外に多い。家事や育児も同様なことが言える。メイドやナニーなどを使って様々な家事がアウトソース可能だが、それと同時に彼らをマネージするという追加のストレッサーを持ち込むことになる。どこまでを自分で行うのか、どこまでを組織で行うのか、ストレッサーという見えないコストも織り込みながら、納得できる形を意識的に探すことで軽減できるストレスは多い。
 


B.情動焦点型コーピング

情動焦点型コーピングは、ストレッサーの「認知」を変えることでストレッサーがストレス反応を起こすに至らないようにする軽減方法である。言い換えれば、事実とその認識を別物だと自覚し、事実にアプローチするのではなく認識にアプローチするストレス軽減方法である。前回の投稿でストレス反応に至るプロセスをわざわざ二段階に分割したことで、「ストレッサー」とその「認知」を分けて考え、それぞれに対応する軽減方法を考えることができるようになっている。
 

③「公平・平等」の普遍性を疑う

我々日本人は、「公平・平等」という概念を基本的人権として非常に大事なものと考えている。果たしてこの認知は正しいだろうか。「公平・平等」という概念に普遍性がなければ、インドでそれが尊重されなかったとしても、たまたまそれを尊重する世界としない世界があると相対化して理解することで認知を変えることができる。
考えてみれば、日本も、「公平・平等」という概念と社会制度が本格的にはじまったのは、20世紀に入ってからである。20世紀に入ってもなお、戦前は華族が存在し、公平・平等の外にある特権階級を公に容認してきた。そのように我が身を振り返ると、公平・平等という概念を基本的人権の一部として認識せずに階層的な身分制度が残っているインドのような社会がこの世に存在していてもなんら不思議ではない。彼らは彼ら自身のローカルルールで動いているだけだ。
駐在員の我々はあくまで部外者で、インドという地域や社会に対して最終的な責任を持つことはできない。彼らのローカルルールがいくら世界で主流となっている現代の人権意識と乖離していても、インドという地域の大部分の人々はそれを選択しているのである。つまり彼らのフィールドの中では我々が至高の存在としていた倫理観を彼らがまともに尊重していなくとも、それは「自然なことである」と意識的に認知することでストレスが軽減される。

この認知のやり方は、「公平・平等」という倫理観をインドでは捨てればよいというわけではない。象の鼻が長いように、彼らは彼らとして自然な倫理尺度の中でふるまっているだけである。不思議なことに我々日本人が彼らのローカルルールに従ってふるまおうとすると、思いがけず彼らの方から「公平・平等」な対応をしていないことを非難されることがある。もちろん彼らは高尚な基本的人権としてその権利を主張しているわけではなく、それが自分の利益になるから主張を展開しているだけだが、不意に自分の行いを刺されないように気をつけなけければならない。

④インド国内旅行によって、多様なインドに出会う

インド全土に「公平・平等」を尊重しない人々や地域が広がっていると考えると、非常に気が重くなる。大多数のインド民と彼らが構成する社会はそのような倫理観によって構成されているのは事実だが、同じインド内であっても地域や人々によっては、その振る舞い方や倫理観の度合いなどに差があることを理解できれば、「ストレッサーが蔓延しているインド」という認知を軽減することができる。

こちらの投稿でも解説しているが、インドはとてつもなく広大で多様だ。駐在期間が長くなればなるほど日々感じる。デリーからムンバイに行くだけでも異なる言語が使われており、人々の姿かたちや宗教の割合や存在感も異なる。広大なインドを理解するには、職場があるデリー、ムンバイ、バンガロールなどの単一都市で生活しているだけでは不十分である。沢山のインドの姿を知るためにインドの国内旅行に是非行くべきだ。そうすることで自分が感じているストレッサーも地域で濃淡があることが分かってくる。

例えばアラビア海に面するインド南西部のケララ州は、古くはポルトガル人やオランダ人が貿易を行った港町を有する州で、訪れる日本人駐在員が口をそろえて非常に心地よかったと言う。必然か偶然かこの州は非常に珍しいことにインド共産党が州の政権を握っており、前述したとおり公平・平等という概念が薄いインドにおいて、それにカウンターするかのような抑制が効いているメンタリティーなのかもしれない。
ミャンマーに近い北東部には我々日本人のような顔つきをしているマニプールの部族が住んでいる。彼らはメンタリティーも比較的穏やかで食べ物や宗教も主流派のインド民とは異なる。インドの日本料理屋では彼らの性格と食の特性と日本人との親和性が合うので、数多くのマニプールのインド人が都市部でも雇用されている。このように、インドの多様性を実体験として感じとることで、ストレッサーの全体の質量ともいうべきものを軽減して認知することに役立つ。
 

⑤本社とのコミュニケーションを強化し、日本を感じて仕事をする

「公平・平等」という倫理観の欠如を相対的なものとしてとらえて「認知」を修正するために、前の二つと組み合わせると有効な方法は、日本の本社とのコミュニケーションを意識的に強化し、彼らとのアラインを意識した仕事をすることである。これによって、インドという環境やインド民の人権意識が世界でもかなり特殊なケースであると理解しつつも、日本人の「公平・平等」に対する意識もかなり極端であるという事実を自覚する機会を増やすことができる。
日本の本社と密にコミュニケーションを取って仕事をしていると、様々なところで彼らの強すぎるほどの「公平・平等」の倫理感を自然と感じることになる。そうすることでインドとは逆に、「公平・平等」を至高とする集団が極東の地に存在することを思い出し、あくまでこれらの倫理の重要性は社会集団によって異なり、普遍的な概念ではないと認知することができる。
人間の行動から倫理観を感じ取るには、実際に日本に行くなり、地域拠点があるシンガポールや香港に身を置くのが最も効果的である。我々駐在員もインドやインド人の話は着任前からイメージはあったものの、その実態を知るのは現地に住んでからだった。出張の機会を意識的に利用して、「公平・平等」を是とする人々に接することはインド民たちの織りなす社会や倫理感を冷静に相対化して捉えることに使いたい。

(次回の投稿では、ストレス解消型コーピングの説明と、インド駐在員にありがちがな、「防衛機制」反応に関して解説して、今回のシリーズの締めとしたいと思います。)


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