見出し画像

インドを見る視座 ①国ではなく「地域」として捉えるインド

(以下は、2023年末に投稿した内容をNoteにまとめたものです。連投という形でXには投稿しましたが、やはり文章としてまとまっていたほうが読みやすいので、こちらに投稿しました。)


今回、インドを見る視座として次の三つを提示したい。
①国ではなく「地域」として捉えるインド
②印僑とインド民
③インドとの選択的関係性

以下は、①国ではなく「地域」として捉えるインドについて述べた章である。

インドはひとつの国として振る舞っており、我々日本人もインドを日本と同じような国家として扱うが、実際はヨーロッパという言葉と同じ単位の「地域」としてインドを捉えるほうがその実態を掴みやすい。言語や人の姿形や宗教も食べ物も、地域によって大きく異なる。今のバングラディッシュやパキスタンがある地域はかつてはイギリス領インド帝国の領土で、今はそれぞれの地域の特徴を濃く持った異なる国に分かれているのと同じように、現在のインド国の国内にも大小異なる小国があるようなイメージこそが、我々日本人が「国」と言われて思いつく同質的で纏まりのある国民が存在しているイメージよりも、インドという国の政治や経済や民族を捉えやすい。いわばこの分断こそが今のインドの本質であるからこそ、2023年現在、モディ政権はやたらとOne Nationを標語として押し出している節がある。治世として統合を強く押し出さなければその統一性が内部から失われかねないほどの多様性と地域性がインドをとらえる視座としてまずもっておくべきものである。

インド亜大陸の北西部に位置するデリーから出張でチェンナイなどの南部の地域に行くと、全く肌の色や体格や物腰の異なるインド人が働いている。インドの外にいるとインド人達の容姿の違いは同じ「インド人」という括りの中で明確にならないが、実際にインドで暮らすと、全く異なる特徴を持った人間を、我々は「インド人」として纏めて見てしまっていたことに気が付く。文化の面でもそれぞれの地域で大きな隔たりがある。このような肌感覚はインド人同士も自然と認識していることで、南部の人間が、デリーを含む北西部の地域の人間に対して、その粗暴さや狡猾さを批判することもよく日常的に聞くし、北インド人は北東部のマニプール(ミャンマー人のような容姿をしている)を温厚だがのろまであると馬鹿にしたりする。実際にそのような特性を持っているかは別として、インド人自身の感覚としてそのような言説な容易に展開される環境にある。言語の面でも、ヒンドゥー語は公用語であるが、ヒンドゥー語でバンガロールのリキシャのドライバーに話しかけた北部から来た女性が、ドライバーから「この土地の言葉で話せ!ヒンドゥー語で当たり前のように話しかけてくるな」と、罵声を浴びせられる動画が今年もSNSで拡散された。食の面でもインド人はベジタリアンが多いイメージだが、コルカタがあるベンガル地方は90%以上がノンベジであるし、あれほど牛を大切にして絶対に食べず、スーパーにも牛肉が一切流通しないデリーと比べて、ケララなど南部の州では牛肉の輸出までしている。

インドという言葉を一つの国家ではなく「地域」としてとらえる視座を以てしても、インドの内部を隔てる分断は、実際はさらに複雑であることを認識しておく必要もある。地域的・物理的な横の分断に加えて、階層別の縦の分断も存在する。地域的にあまりに異なる特性は、同胞意識を育むことを難しくする事実は容易に想像できる。遠く離れた言葉も容姿も異なる人々に対して同族意識を持つことは非常に難しく、実際インド人と話していても自身とは全く異なる民族に対しての関心は非常に薄い。それに加えて、たとえ同じ地域に住んでいるとしても、帰属集団が異なればこの関心の薄さは強く、階層が異なる人間が貧困にあえいでいても同胞としての憐みの感情抱いている素振りはない。例えば、これだけ社会格差が酷い状況にもかかわらず、貧困に関するチャリティや寄付などのイベントを見かけることは驚くほど少ない。コンビニに必ず募金箱がついていたり駅前で大々的な寄付の呼びかけが行われている日本や、大富豪が協力してチャリティイベントを企画するアメリカと比較すると違いが判る。これは運命論的なヒンドゥー教の死生観によるところも多いが、国家、国民、同胞としての相互扶助的な意識が大変希薄であることの表れであり、縦の分断が強く存在することを示しているといえる。インドと聞いたときに、相手が「どのインド」の話をしているのか、確認しなければならない。インドを、多様性を持つ地域としてとらえ、さらにその中にモザイク模様で存在する分断された社会グループの存在を認識することが、インドをとらえる際に最初の座である。

一国として取り扱うにはあまりにもそぐわないこのインドという地域だが、そうは言っても我々がインドに対して明らかに感じる特性、インド的な何かしらの共通点がある。それは何か?現地に住んでみて、インドで身の回りに発生する様々な事象を観察して見出したインドという地域が持つ最も特徴的かつ根源的なことは、「過密」である。これこそがインド的なものの元になっている。
インドの人口は今や14億人を超え、今年、世界一位になった。東京の過密度合いも凄いが、日本よりも人口密度が多く人口も多い国は実は世界でバングラデシュとインドしかない。インドは日本の12倍近い人口を抱えながら、国土面積は9倍ほどしかないのである。インフラの充実度を考えれば、人々が居住可能な地域はさらに乏しく、その限定された空間に多数の異なる民族が入り混じっていると想像すると、この過密が生み出す混乱状態を理解するに難くない。車の窓から街を眺めると、インドの街中には「何をやっているのかよく分からない人」が膨大にいる。実際に仕事もなくただ立っているだけだったり、何かをただ何時間も待っていたりする。要するに人が余っている。インドの地方都市や村を訪ねると、この「人余り」の過密な状況は地域を問わずインド主要な都市だけでなくこれらの小さな町でも一様に発生していて、マーケットなどひとつの場所に異様に人が群がっている。この異常な過密に関して、東北大学名誉教授の吉岡明彦氏の「インドとイギリス」の冒頭にも、「これほど厳しく残酷な生存競争が、時々刻刻、しかもこのように大規模にくりひろげられている国はないのではないか」と、人口過剰、人口爆発について述べている。彼がインドを訪れたのは、昭和四十八年であるが、経済成長とは無縁のその時代ですらそのような感想を持つほど、インドの持つ共有の本質は変わっていないのだろう。もっと時代を遡ればそれだけ人口は少なかっただろうが、居住できる地域もそれだけ少なく、過密という特徴は古来より続いたものと想像できる。

宗教や人々の倫理観や行動規範というものは、風土の特徴とその中で集団が生き抜くのに適した形で形成され、存続、伝播されていく。過密というこの地域に広く共通する特性は、インド人が持つ特徴に強く反映されている。
現地の駐在員を悩ませるインド人の特徴としてよくあげられるのは、①競争意識と自己防衛本能、言い訳文化。②時間感覚の緩さと、短期思考。③親族第一主義とその連帯(裏を返せば約束や法律などは二の次)、④これらを裏打ちする強すぎる自己肯定感などがある。
我々インドの駐在員は、他の地域と比べて相互に助け合って生きていかねばならない事情から、事業分野の垣根を越えて日常的に腹を割って話す機会が多いが、その意見交換の場を通じてこれらの特性はよく挙げられるものである。そして、これらは、祖先との血縁を非常に重視するヒンドゥー教のみならず、インドで暮らす民が持つ共通した特徴であると見受けられる。一寸先は闇という状況において、とにかくその場を生き抜き、明日に命をつなげるための思考形態だ。この地で信じられるものは抽象的な国家や法という概念ではなく、目の前で作用する家族という集団の力である。言葉すら共通しない異民族の王に対する安心や尊敬などというものは期待することもできない。自治の精神や一体感や市民意識に非常に乏しく、国民は個人である前に、家族との繋がりやそのルールこそが先行するのであって、法律や制度がそれと対立するような場合は、尊重する姿勢や理由も乏しい。そのような歴史的背景を通じて、今のインド人の行動様式は、生存競争が過酷な過密の状況で自分が生き残るための最適戦略として働いている。

インドを「地域」と理解し、一括りにできない多様性が渦巻く空間と理解すると同時に、インド的な共通点を持っている空間であると理解することが必要である。この両方の見方がなければ、単にインドを単純化してとらえてしまったり、逆にまったく掴みどころのない不気味な存在としとらえてしまったりする。もはや無視できなくなったインドを扱うに当たって、座り心地のよく、見渡しやすい視座を持っていると不安や誤解なく、インドを向き合うことができる。

次の記事では、②印僑とインド民について、説明していく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?