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休憩時間のお供にいかがでしょう?

何度でも見返したいと思える、非常に示唆に富む面白い動画に出会いました。

いくつもの気付きや発見があったのですが、それらを反芻する中で、少し前にベストセラーとなった「嫌われる勇気」を思い出しました。

同著の中でアドラーは、「原因論」を否定し「目的論」を唱えます。

例えば、引きこもりのようなケースがあったとして、それは何か特定の原因(両親が無くなったとかいじめがあったとか) があって導き出された結果(=原因論)ではなくて、本人の意思や望みに基づくもの(例えば、その方が周囲の関心を惹けるから)(=目的論)、と。
そうでなければ同じ苦しい境遇にいる2者が、一方はそれをバネに逞しく生きていくのに対し、一方は引きこもっているという事象が説明出来ない、と。

貧困などといった社会的分断や断絶があったとして、その状況に陥ってしまったことが本人の内発的な意思に基づくものであるのならばもちろん、仮に本人の意思とは無関係だったとしても、その状況から抜け出せない、抜け出さないのは、環境の産物などではなく、それすら本人の希望なのだとしたら、我々は、分断の向こう側の人々を助ける必要なんてないじゃないか、とも思えるかもしれない。

だけど、産まれた瞬間から心も思考も正しく前向きに使い、これまで1ミリのミスもブレもなく人生を歩んで来ました、なんて人いるのだろうか。ほんの一歩間違えば、良くも悪くも自分はここにいなかったかもしれない、そういうものすごく繊細で危うい(だけど、だからこそダイナミックで魅力的でもある)面があるのが人生なんじゃないのか。

大きいものから小さいものまで、皆人生の中で何度も失敗や改善を繰り返して今があるはずで、「あの時判断を間違っていたら」とか「あの人に出会っていなければ」とか、あるいは「あの機会が得られていなければ」とか、きっとあるはず。それらを経て今があるのは、もちろん本人の努力に拠るところが大きいのだと思うけれど、運やご縁や環境のおかげ、という面も多分にあるはず(運やご縁に恵まれるか否か、気付けるか否かも本人の実力のうちという見方もあるし、確かにそれも真である、とも思うけれど)。

だからこそ、綺麗事だけでは片付かない部分が多くはあるのだけれど、それでも、分断や断絶を乗り越えるために、個人として社会として何が出来るのか、過去の自分のため、未来の自分のためにも、考える必要があるのだと思う。

分断や格差、というワードがより身近になり、自分ごととして考えさせられる時間でした。
ものすごく有意義な休憩時間!!

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