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突き進む人と赦す人─『哀れなるものたち』鑑賞記

終演後、意識よりも先に足がパンフレットを買いに一直線にカウンターまで向かっていた。

興奮気味で家路につく中書き留めたメモを辿りながら、感じたことを記録しておこうと思う。


(作品本編のシナリオに言及している部分があります。鑑賞前の方はご注意ください)


あらすじ

自ら命を絶った不幸な若き女性ベラは、天才外科医ゴッドウィンの手によって、奇跡的に蘇生する。
ゴッドウィンの庇護のもと日に日に回復するベラだったが、「世界を自分の目で見たい」という強い欲望に駆られ、放蕩者の弁護士ダンカンの誘惑で、ヨーロッパ横断の旅に出る。

急速に、貪欲に世界を吸収していくベラは、やがて時代の偏見から解き放たれ、自分の力で真の自由と平等とを見つけていく。
そんな中、ある報せを受け取ったベラは帰郷を決意するのだが───。

公式パンフレットより

直感のままに確立されゆく自己

蘇った当初のベラは、未熟な発達段階の脳と大人の女性の身体を持ち、ゴッドウィンの研究対象として邸宅に幽閉され過ごしていた。
その際目立ったのは、幼ながらの好奇心による攻撃性や残虐性。

次第に性的欲求を覚え、まっさらな状態から導き出した快楽を貪る。その姿に、後ろめたさや恥じらいは一切見られない。


やがて冒険の旅に繰り出したベラ。
暫くの間、駆け落ち相手のダンカンとの“熱烈ジャンプ”に明け暮れる日々が続くも、客船内で高貴な老婦人・マーサと黒人の青年ハリーに出逢い、知性を獲得する愉悦や格差社会の実情などを実体験をもって学習していく。

束の間の航海を経て降り立ったパリではセックスワーカーとして働き、あれほど陶酔していた性行為を金稼ぎの手段として捉え、他者の性的欲求を俯瞰的に見つめる。

そして経済的に自立してからは学問を志すようになり、ラストシーンの安全基地めがけて物語が加速していく。



一貫して映し出されるのは、直感の呼び声にいかなる時も忠実であり続け、厳格な社会規範や文化的慣習には囚われずに自己を確立していく。
そんな一人の人間の成長の有り様であり、抑圧を感じながら生きる全ての人を鼓舞する希望の光でもある。

ベラの驚くべき成長過程を見せる上で、人生で初めて得た快楽である「性欲」に対する価値基準の変容は、シナリオの根幹たり得る。

そういう意味で、過激な性描写の多用も必然性がある。

突き進む人と赦す人

ベラの冒険への渇望は止まることを知らず、場所や対象を変えながら、未知の領域へと果敢に突き進み続ける。

劇中では、そんなベラを受容し、赦す人々の存在が見られた。

アンモラルな話題を繰り広げながら近付く彼女を拒絶せず、寛容なまなざしで仲間として受け入れたマーサやハリー。
そして誰より、彼女の無垢な探究心を尊重して待ち続けた婚約者・マックス。

この世の全てのサイクルは、突き進む人とそれを赦す人との化学反応に尽きるのではないかと再認識する。

自分の可能性を拡張していかんとする勇気と行動があり、それを信じて自主性に委ねる寛容さが周囲にあってこそ、世界は良い方向へと少しずつ動く。
普遍的ながら、その一連の営みの美しさが遺憾なく描かれている。

同時に「冒険させてもらえない性別」についても考えざるを得ない。
これまで家庭に留まり夫の自己実現を陰ながら支え、その主体性が透明化されてきた性別のことを。

映像作品としての芸術性

この映画を話題作たらしめているのは、メッセージ性に加え、その耽美的な芸術性でもある。

どのフレームも洗練された絵画のよう。しかし、それを形作るモチーフ一つひとつにも心くすぐられる。


まず撮影手法では、冒頭の閉塞的な生活風景はモノクローム、旅に踏み出して以降はカラーでの撮影と意識的な切り替えを行っている。

モノクロームの間、物語の主人公として映されていなかったベラ。
しかし主体性の芽生えと同時に画面が色付き、我が物語と言わんばかりに肉薄する。

そしてベラが纏うアイコニックな衣装デザイン。
終始パフスリーブが印象的だが、まるで意識変容の様相を呈するかのように、そのスタイルを変えていく。

旅程で初めて降り立った地、リスボンの色鮮やかさにも目を奪われる。
桃源郷があるならばこんなだろうかと思うほどの景色に、思わず旅情を掻き立てられる。
そして、脳全体のシナプスを電気信号が駆け巡るような劇伴が流れる。

劇伴も全編を通して本当に美しい。

希望と絶望、楽観と悲観がうまくブレンドされた曲の数々。
ストーリーテリングな音作りによって、ありありと劇中の情景が思い起こされ、こうして聴き返すうちにも胸が締め付けられる。

『哀れなるものたち』とは何なのか

私はこの問いに対して二つの解釈を持った。

一つはダンカンやブレシントン将軍に見る「従順な女しか所有できない男たち」。
彼らの辿った末路に、この映画のステートメントが示されているのではないか。


そしてもう一つは「社会に縛り付けられた挙句、戦意を喪失した私たち」である。

かつて、ルソーの『社会契約論』の源流となった「文明が人を堕落させる」といった思想のように、一見奔放に見えるベラの姿こそ、人間のあるべき姿なのではないか。

彼女の成長過程で、集団意識に遮られることのない気高く純粋な生の謳歌を見て、「自分を全うするのだ」と鼓舞されるようだった。



社会に出てからというもの、自分の居場所を作ろうと適応していく中で度々苦心してきた。

ようやく着地できたかなと思える今も、ふとした瞬間に、裸一貫で日々と向き合えていないフラストレーションが顔を出す。

現実的には折り合いを付けつつではあるが、封印してきたアイデンティティにもちゃんと息をさせてあげる。
これからの人生はそんなフェーズにしたいと切に思う。

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