「人生の意味」に対する「愛」の役割について

先日、カクヨムにて短編『ある男の高校時代の想い出』を公開しました。

回想 - ある男の高校時代の想い出(薬味たひち) - カクヨム (kakuyomu.jp)

これは私が高校生の時に書いた小説です。テーマは『人生の意味』と『愛』。当時ドキドキプリキュアの再放送を追っていて、愛について何か書きたいと思ったのがきっかけでした。

ドキドキプリキュアでも言及されていたのですが、愛と自己中って紙一重なんですよね。相手のためだと思ってきたけど、よく考えたら自分のためだった。と言ったことはよくある話です。

でもやっぱり、長い人生の中で誰からも愛されないことは苦しい。では愛される人間であるためにはどうしたらいいか。すぐに浮かぶのは人を愛せる人間になることではないでしょうか。

しかし、ここに問題があります。
愛するということは自分の感情ですから、自分の努力次第でコントロールできます。しかし愛されることはそうではない。たとえ、自分がどれだけ相手を愛したとしても、それが返ってくるとは限らない。愛されるか否かは結局は他者に委ねられます。つまり、愛されることを人生の目的とすると、自分では人生に意味を与えられないことになるのです。

では、愛することは人生において意味がないのでしょうか。私は「ある」と答えたいです。というのも、愛することの価値は「愛されること」ではなく、「愛すること自体」にあるからです。キルケゴールという思想家は「愛のわざ」の中で次のように論じています。

欺瞞者は愛する者から彼の愛を欺き取ろうとする。しかし、それは不可能である。なぜなら、真に愛するものは一片の愛の返しを要求することも絶対にしないし、ことこれに関してはゆるがぬ態度を保持しているからである。

キルケゴール,武藤一雄・芦津丈夫訳,1995「キルケゴール著作集16 愛のわざ 第2部」白水社 (p60)


彼は真に愛するものは、愛の返しを一切要求しないのだとします。そしてキルケゴールは、彼らはたとえ愛の対象に欺かれていても、なお彼を愛せることを勝利とするのだと続けています。この愛はもはや、外的なものへの影響を他者を考慮には入れていません。愛が返ってくることも求めません。すなわち、究極的な愛は、他者のためではなく、自己に起因するものとなるのです。

さて、最初の小説の話に戻りますが、本作では「人生の意味」を、誰かに必要とされる存在となること、誰かのために何かをすることと結論づけました。これは一見すると、他者のために生きることを意味するように思えます。

しかし、私は一歩進み、これは他者への愛を自覚することであると考えたいです。たとえ、その愛に誰も気がつかないのだとしても、自分がその愛の大きさを自覚するならば、そこに意味はあるのです。そうした愛には理由などなく、もはや信仰に近いのかもしれません。しかし、愛それ自体に意味を見出すことができるならば、それは決して揺らぐことのない「人生の意味」であり得るのではないでしょうか。

というわけで、「ある男の高校時代の想い出」
少し暗い話ですが、読んでもらえると嬉しいです。

(「ぼくの好きな人はニーチェに夢中なようです」も連載中です!)

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