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チラシの温もり

寒さで手がかじかんでくる。クーポン付きのチラシを持つ握力すらも、そろそろ力尽きてきてしまいそうだ。冷たい風が半袖の隙間から入ってくるたびに、全身に鳥肌が立つ。

「クーポン付きチラシをお配りしております。よろしくお願いします!」

何度頭を下げても、分厚いコートを着たサラリーマンは、私の前を通り過ぎていくだけ。子供連れのお母さんは、私を視界にすら入れてくれない。チラシ配り開始から1時間。手持ちの80枚は、まだ1枚も捌けていない。とりあえず、店にあるコートを着てから再挑戦しよう。天気予報では、今夜は雪が降るかもしれないと言っていた。このままでは風邪をひいてしまう。そう、言い訳しながら店の扉を開けた。扉の先には、おしゃべりを楽しんでいる梓さんたちがいた。私の手元を見て、バイトリーダーの梓さんを筆頭に、みんなは厳しい目を向けた。

「あれ? 千秋ちゃん。もう、配り終えたの? 配り終えるまで戻ったらダメだって言ったよね?」

梓さんは、他のバイトの子にも確認するように、笑いながら言う。梓さんは私と同じ大学に通っていて、私とは4つ違いの先輩だ。可愛くて、仕事もできるが、新人にきつく当たることでも有名だ。だからなのか、お客さんが少なくなると、私をチラシ配りに繰り出す。毎回、チラシが余れば余るほど嫌味を言われるため、私はチラシ配りに精を出すしかなかった。

「コート、取りに来たんです。あまりに寒いので」

私は、なるべく愛想よく、できる限りの笑顔で答える。ちょっとでも嫌な態度を見せてしまうと、梓さんの当たりはさらに強くなる。

「でも、ユニフォームをちゃんと着ていないと、ウチの店かどうか分からないんじゃない?」

梓さんの言うことは一理ある。おそらく嫌がらせ行為でもあるが、正しいことを言っている。これに抵抗したら、余計いじめられてしまう。

「そうですね。じゃあ、行ってきます!」

人生初のアルバイトが、こんなに辛いとは思っていなかった。大学生になって、おしゃれなレストランで働くことを夢た私は、本当に愚かだったと思う。理想と現実のギャップが、あまりにも広がりすぎていて、それはずっと埋まらないとしか思えない。

「クーポン付きチラシをお配りしております。よろしくお願いします!」

何度も頭を下げるが、誰も取ってくれない。私のやり方が悪いのだろうか。私が可愛くないからダメなのだろうか。梓さんだったら、捌けるのだろうか。もう、どうしていいか分からない中、私にできることは大きな声で頭を下げることしかなかった。

「いってーなぁー!」

頭を下げたその反対方向から、歩きながらスマホを操作していたサラリーマンとぶつかった。

「あっ、すみませんでした」

私の言葉尻は弱くなっていた。凍えそうな手を引っ込めて、また頭を下げ続けている。私は一体何をしているんだろう? 報われないことをし続けるのは過酷だ。でも、これを配り終えないと、店には戻れない。店に戻れなかったら、この寒さ地獄の中で過ごさなければいけない。死に物狂いで配り続けるしかないんだ。

「クーポン付きチラシをお配りしております。よろしくお願いします」

また無視されるだけの地獄がはじまる。頼むから誰か受け取ってほしい。

「あ、ありがとうございます」

茶色のコートを着た同い年ぐらいの男性が、私のチラシを受け取った。
やっとの思いで、私の気持ちが届いた。あまりの嬉しさに、泣きそうになる。

「あの、寒くないですか?」

男性は私の目をまっすぐ見て、心配そうに言う。

「あっ、大丈夫です! ありがとうございます」

私は、突発的に噓をつく。大丈夫なわけないけど、本当のことを言うわけにもいかない。

「そうですか。っていうかさ、このクーポン、結構お得ですね。20%もオフなんて、なかなかできないですよ!」

男性は大きな声でクーポンのことを話す。私のチラシを配るペースはさらに遅くなってしまう。愛想笑いでごまかして、早く終わらせなきゃいけない。

「えーっ! そうなの?」

その声を聞いた、おばさんたちがやってきた。

「そうなんですよ!しかも、ドリンク1杯サービスですって!この店、ポークソテーがおすすめですよ!でも、この店、高いのが悩みだったんですよね。僕みたいな若者は、あんまり何度も行けなくて。なので、この機会に行きますよ!」

男性は意気揚々と、おばさんたちに店の魅力を伝えている。おばさんたちは、その言葉に動かされ、私からチラシを受け取った。

「ポークソテー、食べたくないですか? ランチでもディナーでも、ポークソテーは最高ですよ! ちなみに僕、お店の人じゃないんですけどね」

彼の声の大きい雑談を聞いて、お年寄りから子供連れ、サラリーマンまでもが集まってきた。集まってきた人にも、魅力を語り続けている。

「この写真のメニュー、本当に美味しいですよ。お時間あれば、いつでもご来店ください。僕は、この店と関係ないですけど!ハハハ!」

この人は、どんどんチラシを捌いていった。

「よし、もう温まった?」

「えっ?」

さっきまで体を襲っていた鳥肌が、いつのまにか治まっていた。

「ごめんな。喋るの好きだから、つい魅力を語ってしまったよ! それじゃあ、あとの数枚は、頑張ってな!」

そう言って、彼は去っていった。

「あっ、はい。ありがとうございます」

私はその時気がついた。彼は喋っている間、冷たい風の吹き込む方向に立っていた。そうやって私の体を温めてくれた。彼がいなくなった後、私の体は再び冷たい風に吹かれたが、不思議と寒いとは感じなかった。

今度彼が、お客様として来店した時には、私が接客をしたい。彼の心を温める接客を。

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