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「ドタキャン」は、自分を救う。

なんでも頑張ろうとしてしまう人は、仕事だろうが遊びだろうが家事だろうが、常に最善を尽くそうとします。

僕はそういうタイプの性格なので、全方位にエネルギーを注ぐのですが、予定を入れすぎて、途中でバテてしまうことがあります。

全てが大事ではあるのですが、やっぱり限界があります。この忙しいスケジュールを、どうやって組み直すかに、毎日悩んでいました。

そんなとき、僕の周りの友達と僕のスケジュールを比較してみました。

僕の友達は、みんな拘束時間の長い仕事をしています。やりたいことをやれる時間は僕よりも少ないはずなのに、心の余裕があり、僕よりもやりたいことをやれています。

今年は特に、彼らと過ごすことが多かったので、僕との大きな差に気がつくことができました。

僕と彼らの大きな差は、平気で「ドタキャン」できるかどうかです。

僕は、彼らに対してドタキャンしたことがほとんどないことに対し、彼らはドタキャンするほどの急用ができてなくても、平気でドタキャンします。

大体は頑張れば行けるのに、自分を無理させないようにするのが一番なので、僕が頑張って空けた時間を無駄にしてでも、ドタキャンします。

特徴的なのは、自分の立場が脅かされる場合には絶対にしないこと。

昔から、彼らが学校に遅刻したのは見たことがないし、自分の身を滅ぼして戦うこともしないので、僕よりも怒られているのを見たことがありません。

今まではそれを「すごくダサいこと」だと思っていました。

強い人の前では自分を押し殺して従って、自分のことを大事にしてくれる人の前では、自分のわがままを押し通して迷惑をかけるなんて、「こいつらは、なんて情けない人間なんだ」と憤りを感じていました。

でも、それは少し違います。

彼らは人を選ぶことで、自分の心の余裕を保っているんです。

彼らにとって僕は、いつでも優先順位を下げられる人間です。それは、雑に扱われているわけではなく、「選ばれている」とも言いきれます。

ベストを尽くせなくても会いたい人にエントリーされているし、優先順位を下げるだけで、選択肢から消えるわけでもありません。

それに対して僕は、何もかもが優先順位を並列に並べ、全てに対して気を張っています。おそらく、僕が友達にドタキャンを繰り返したら、申し訳なさすぎて、もう自分からは誘えなくなるでしょう。

こんなに気を許していないのなら、僕は彼らのことをまだ「友達」と認めていないのかもしれません。

友達なら、ドタキャンを繰り返してでも、自分にどれだけ非があっても、「相手に会いたい」という気持ちが湧いてくるでしょう。

もしかしたら、その気持ちが湧いてこない可能性が怖くて、僕はドタキャンができないのかもしれません。

自分の心の余裕を保つため、相手との絆を確認するためにも、「ドタキャン」を試してみたいです。

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