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人に話したくなるのは、そこに喜びを感じるから。

人間の「忙しい」には2種類あって、「自分が喜んでいる忙しさ」と「自分が喜んでいない忙しさ」があります。

同じ忙しいでも、自分が喜んでいるかどうかで、大きく意味が変わってくるのです。

自分が喜んでいるかどうかを判断する指標は、「その忙しさを人に話したくなるかどうか」にあります。

自分が喜んでいる忙しさなら、多少の自慢をしたくなったり、喜びの共有をしたくなったり、不満を言いたくなったりもします。

逆に、自分が喜んでいない忙しさなら、誰かに話したい気持ちは全くなく、人に聞かれてもあまり話したがりません。

よく、仕事の愚痴を言う人がいますが、仕事に対してそこまで考えている時点で、その人はその仕事が好きなのです。

仕事を好きじゃない人は、とにかく仕事と接している時間が嫌なので、自分の話に仕事を登場させることはありません。

なので僕は、誰かに言いたい気持ちがある仕事は、自分がそれを好きなんだと認めています。

こうして認めることによって、今取り組んでいることの捉え方が変わってきます。

自分が忙しく取り組んでいる仕事を恨まずに済むし、忙しい中にも喜びを見いだせます。

逆に、誰かに話したくならない仕事もはっきりと自覚できますし、それらと距離をとることも考えるので、心の状態は健康的になります。

これは、「仕事の忙しさ」だけではなく、「過去の思い出」についても同じことが言えます。

自分が喜びを感じていた時代の話は、自ら話を展開できます。

僕で言えば、中学時代や高校時代は喜びを感じていたので、面白いことでも面白くないことでも、大体のことは覚えていますし、いつでも話すことができます。

しかし、高校を卒業して、今の仕事に就くまでの超下積み期は、何かに喜びを感じている時間は少なかったので、その時代のエピソードはあまり出てきません。

学生時代に比べたら最近のことなので、覚えていなくはないのですが、人に話したい気持ちが全くないのです。

ただ、僕の周りの人たちは一人残らず、大学や専門学校に進学して人生最大の青春を経験しています。

そのため、最も喜びを感じていた時期が大学時代や専門学生時代だったりするので、中学や高校のときのエピソードを忘れていることが多いです。

久しぶりに、中高時代の同級生に会ったりすると、みんな、恐ろしいほど記憶がなくなっているので、僕が喜びで溢れた中高時代は、彼らにとっては「喜びが少ない時期だったんだなぁ…」と残念な気持ちになります(笑)。

このままでは切ないので、僕が彼らとまた会うときには、「誰かに話したくなる喜び」を新たに生み出したいと思います。

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