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春のクリュフ 1話

 ポケットの中身はなあに。女の子は赤い、蕾のようなくちびるを動かした。女の子が背にした窓からは、月の光が射し込んでいる。青青とした光としめやかな夜気を、シドは頭に血が昇るほど吸い込んだ。草を這う夜風と自分の呼吸音がひとつになる。静謐な甘さが頭をつき抜ける。女の子の唇があまりにもきれいだったので、シドは近寄り、思わず手を伸ばした。指先が触れようとする前に女の子は顔をそむける。顎のとがった、三日月のような横顔だった。これは、大人の女の顔だ。十かそこらの子供と思っていたのに、二十歳は過ぎているじゃないか……。ポケットの中身、何だろうな。僕のポケットの中に、何か入っていたかな。シド・スノーフレイク。夜の中を滑り、男の声が響く。だんだんと、声は輪郭を現し、白い朝日を連れてくる。

 厨房の活気、それに朝食の匂いがシドを目覚めさせた。フライパンで油がはぜる音、ベーコンの焼ける匂い、陶器の皿やコップが鳴り、喋り声が高くなってくる。コーヒーの香りを吸い込むと、シドはベッドから体を起こした。薄いクリーム色の布団カバーを三秒ほど見つめ、床に足をつける。リネンのスリッパが素足に心地いい。閉じた薄いカーテンの向こうから、太陽の白い光が早く差し込みたがっている。窓を、開けたい。シドのスリッパが床を擦る音に、ノックの音が被さった。
「どうぞ」
 ドアが開き、宿のおかみさんが顔を出す。
「おはようございます、スノーフレイク様。お客様がお見えです」
 客、の言葉に、シドは首を傾げる。
「お若い男の方で。スノーフレイク様と同じくらい、二十歳前後かしら」
 心当たりはない。
「一階で待つように伝えて下さい」
 シドは踵を返し、ベッドに腰を下ろした。男の正体と目的についてしばらく考えてみたが、何も思いつかない。あきらめて洗面所に向かう。カーテンは閉じたままだ。

「お待たせしました」
 その男は足を組み、新聞をきれいに四つ折りにして読んでいた。左手に新聞、右手にコーヒーカップをささげている。手の白さに目を奪われる。潤みを帯びた黒髪で長い前髪に隠れて顔がよく見えなかった。細身のダークスーツを着こなし、シャツのハリや白さも隙がない。
「おはようございます、スノーフレイクさん」
 男は新聞に目を落としたまま言った。柔らかいが、凛と耳に残る声だ。シドが答えないでいると、男は新聞から顔をあげ、シドに視線を移した。
「……おはようございます。私に何のご用ですか」
「おかけ下さい。先ずは朝食にしましょう」
 シドは、主導権を握られている自分に気がつく。
「花冷えですね。この時期の朝は、まだ冷え込む」
 男は姿勢を崩さない。
「あ、はあ」
自分でも間抜けな返事だと思いながら、席につき、テーブルに来たおかみさんに朝食を頼んだ。一階は食堂兼待合室で、長方形の木製テーブルを挟み、背もたれのある長椅子が設えられている。シドは男と向かい合う格好だ。










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