ポケットの中身はなあに。女の子は赤い、蕾のようなくちびるを動かした。女の子が背にした窓からは、月の光が射し込んでいる。青青とした光としめやかな夜気を、シドは頭に血が昇るほど吸い込んだ。草を這う夜風と自分の呼吸音がひとつになる。静謐な甘さが頭をつき抜ける。女の子の唇があまりにもきれいだったので、シドは近寄り、思わず手を伸ばした。指先が触れようとする前に女の子は顔をそむける。顎のとがった、三日月のような横顔だった。これは、大人の女の顔だ。十かそこらの子供と思っていたのに、二十歳
鉄の蜜蜂 を注文した。 岡井 隆さんの歌集だ。私は短歌を詠まないし、明るくもない。 今年の夏、岡井さんが亡くなったと新聞記事が報じていた。 いやあ彼らの立つてゐるあの場所こそが荒野なんだと知らないのかい 新聞記事(日経,2020,7,12分)に、「鉄の蜜蜂」からこの歌が引かれていた。今私は、手もとのメモを見ながらこれを書いている。広告の裏をスマホほどの大きさに切った紙に、ボールペンでこの歌を書き留めたのだ。夏から今までずっと、テーブルの透明クロスの下に挟んでいた。
動楽亭リモート寄席。米紫さん、まくらのお話やトークの時、ちゃんとカメラにも視線を合わせて、リモートのお客さんの方も見てくれました。温かい✨
足もと固まらぬ 友達以上、恋人未満がゆらゆら苦しくるしく 『もう二人では会わない』と告げて 二週間はにしゅうかんだった。 最初みっか喉通らず 奇しくも油は抜けて いっしゅうかん 楽なの。 てばなした。わたし手放した。 ほんとうはずっと喉笛押さえつけられ 心におもいおもいおもい いつも 帰ってから泣いてた てばなした。わたし手放した。 に週間 楽なの。 わたし、もうあなたいらないの。 白い白いてのひら こんなにじゆう。虹有。 ゆびさき 細く
ひこばえの上に落ちたら、巻き込まれる。やがて木と一つになる。若い枝が私を抱きこみ、自分のものにして、そびえていく。 アリの巣を塞いでしまったら、じゃま者扱いだ。たちまち跳ね除けられるだろう。それとも、地面の中に運ばれ、ご飯にされてしまうかな。 思いつめている人の手に載ったら、何かの啓示だと思うかもしれない。考えが晴れるといい。過ぎて、お守りにされたら困るけど。 「あと三人、今日中に見つけないと。自転車に乗ったまま、夜を越すのはいただけない」 「お前、太陽がこんなに高いのに
「これはなんのパーティーだい」 「七輪車パーティーです。あの、よかったら、仲間に加わってもらえませんか」 ウグイスが事情を説明する。聞き終わると、男の人は困った顔をした。 「一緒に行きたいね。でも、さっきも言ったけど、仲間が待っているから。これじゃ、代わりならないかな」 帽子を脱ぎ、内側を確かめながら、渡してくれる。帽子は熱いくらいの温度で、石鹸の匂いがした。 「汗ばんでいて悪いけど」 「ありがとう。乗せていきます。いつ返せばいいですか」 「きみらが自転車から降りられたら」
米紫さん、「米紫」を襲名されてから10周年とのこと。駆け出しの方に「師匠」って呼ばれてはる。都んぼさんだったころから拝見しているので、私もその時から10コ以上年取ってるやん。変わらずエネルギッシュで頼もしい、素敵なお兄さんです。
人は、興味を持った時、身を乗り出すもんじゃなかったかな。シドは頭を掻き、緑の目をしばたたかせる。癖のある砂色の髪が跳ね上がった。 「僕は金が無いんで、歩いて行きますが、構いませんか?」 「私が馬車を雇いましょう。まだ宿の前に何台かいるはずだ」 ハスカの佇まいは、どうもこの安宿の雰囲気に似つかわしくない。清潔で食事も美味しい宿ではあるが、ハスカなら町のホテルを選びそうだった。ハスカはおかみさんを呼び、馬車について尋ねている。 「お客さん、町に行かれるのね。さっき馴染みの馭者に
私もおかしくて歓声をあげた。蛸だけ、面白くなさそうにしている。 「じゃあ、きみ、乗ってよ」 ひとしきり笑った後、息が静まるのを待ち、ウグイスは言った。蛸は足を揺らし、もったいをつけた。 「さあてね。どうするかね」 「どうしてこんな子を誘うの。きっといじわるされるよ」 耳打ちする。それが聞こえたのかどうか、蛸が枝から降ってきた。潮風と同じ匂いがする。器用に這うと、自転車の顔の部分に陣取った。車輪を抱え込む。 「お前たちが困るところを、見物する」 ウグイスは私に目くばせすると、ペ
ボイスラジオです。昔作った本の中から、詩を数編朗読しています。 よろしければお付き合いくださいませ。
中学の時の公民の教科書を引っ張り出し、日本国憲法前文を読んでみました。 上手ではないかもしれませんが、平和への願いを込めて。 (子どものような声ですが、いい大人です…)
「一週間前に」 その言葉を怪訝な思いで聞いていた。しばらくして、なぜか分かった。 一週間前、私は生まれていない。昨日誕生したばかりなのだ。 ウグイスは気がついたのか、少し笑った。 「きみは、まだいないね。だけど、生まれる前のことを聞かされるというのは、これからもあるよ。我慢するんだね」 私はよそ見をした。向こうには丘がある。薄い水色の丘肌に、風が線をつけていく。風に引掻かれるというのは、どんな心持かしら。私にはまだ、緩くそよぐだけだ。 「聞きたまえ。一週間前、奇妙なものを見つ
米紫さんは若手だろうか。気になり始めて落ちつかない。自分のプロフィール欄に「若手では桂米紫さんが好きです」と書いている。Wikipediaを見てみると、1994年から活動され、現在46歳とのこと。中堅?若手って言ったら失礼? うーん、うーん…。
「初めてお会いしますよね?」 シドは相手の顔色を伺うが、髪と同じ黒い瞳からは、何も読み取れない。男はゆっくりと新聞をテーブルに置いた。 「初対面ですね。でも、あなたのことは知っています。例えばこのエインズリー」 男はテーブルの上の新聞を手で示した。 「あなたは何度か記事を書いている。印象的な記事です。でもあなたの本分は写真だ。そうでしょう?」 「ありがとうございます。ええと、じゃあ、君は僕の読者っていうか……」 「そんなところです」 シドはまだ腑に落ちない思いで相手の顔