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【論語】 読書#125

みなさん、いつもお世話になっております!
本日は、私の投稿の軸とする一つ「本」「読書」に関して書かせていただきます。

自己紹介に書いたマイルールを守りながら、私の大好きな本について書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!

今回は、論語です。
前回も儒教関係だったので、ある種連続となってしまいました汗

ヘッダーは、アオキケンヂさんの作品を使わせていただきました!
ありがとうございます!!


目次


基本情報

金谷 治(著)
岩波書店 出版
1963年7月16日 第1刷発行

全406ページ
読書所要期間56日

本書は、バリューブックスさんで購入しました!

はじめに

普段の私のnoteでの読書ノートは、
・私が本書に出会うきっかけ
・私が思う、この本の本質
を書いてから、感じたことを書くという流れ(テンプレ)にしているのだが、実は本書は以前#117で一回書いている。

普段はやらないのだが、その時は途中経過(読んでいる途中)で一回書いたということだ。
書きたいことがありすぎて長くなったので、一旦リリースしたというかたち。

前回は、論語中の全20パート(章)の内、2番目まで書いたもの。
ということで今回は、3番目以降について書くことにしたい。

そして内容としては、心に残った言葉についてまとめていくこととしたい。

私が感じたこと

老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐(なつ)けん

第8のパートから。
訳としては、
「老人には安心されるように、友だちには信ぜられるように、若者にはしたわれるようになることだ。」
ということだそう。

私は今年で40歳となる。
人生80年にしても、100年にしても、概ね中間地点。
上(年齢的)には大勢の先輩がいる一方で、下にもそれなりに多くの後輩がいる。
そして私たちの世代は、まだ今ほどは出生率も少なくない時代。
それなりに同世代の方々もいる。

そう考えた時、この言葉がとても心に響く。
私の今後の生き方の、大変大きな指標、考え方の軸になると感じた。
特に、若い方々には決して横柄な態度を取ることなく、対等に過ごすことがとても重要なことだと心に刻みたい。

仕事上、経験年数が重なってくると、どうしてもポジション的には上がっていくことになる。
ここを勘違いしないようにしたい。
決して、私が人間的に上(優位)にあるということではないということを。

そもそも年齢的に上とか下とか、先輩とか後輩とか、この辺が儒教らしさ、日本らしさの一つかもしれないなぁと最近感じる。
英語には、先輩・後輩と直接意味する言葉がないと最近知ったことが特に大きいかもしれない。

だからと言って、不要とは全く感じていない。
年齢的に上の方へは、これまで尽力された人生に、行いに敬意を表さなければならない事実は変わらないと思っている。
でも、だからこそ、そうした方々も私たちのような者の上に立つのではなく、少し降りてきて欲しいなぁと感じることはたまにあるのだがw

朋友に関しては、もう40年近くともに過ごしてきた方々、就職してからともに過ごす方々など、様々な友の形があるが、この繋がりの源泉は「信頼」であることは揺るぎないだろう。
信じてもらうためには、私がまず相手を信じること。
信じることなくして、信じられることはない気がしている。
これからも続けていきたい。

人の己れを知らざることを患えず、己れの能なきを患う

これは、パート14から。
パート14は「憲問」というらしいが、ここは私にとって金言の多い部分であった。
その中で、今回書こうと思ったのがこちらである。

「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。」

これは私自身若い頃に、恥ずかしながら大変悩んだことであるw
大なり小なり人というものは、そうなのかもしれない。
アイデンティティの確立に強く結びつく部分であると考えられる。

「こんなにやっているのに、なぜ評価されない」
「いったい周囲は、何を考えているのか」
「”お天道様は見ている”は、嘘ではないのか」
などなど考えていたことを思い出す汗笑

そして、これに悩む後輩にも怒りを込めてブツけられたこともある。
青い鳥症候群ではないが、私たちのもとから旅立っていった後輩もいた。

要するにここから学びたいことは、判断軸/評価軸を外(周囲)に求めるのではなく、自分自身(内側)に求めるということだ。

隣の芝は、とにかく青い。
枯れることは、ほとんどない。
枯れているように見える時は、自分自身への自己肯定が高まっている時か、そのものを貶めた時だろう。

それが、本当に自分自身のためになっているのか?
他人がどうこうではなく、自分自身がどうなのか?

第二次性徴期、思春期と言われる時期は、まさにこの闘いへの入り口だろう。
この闘いに、いったいいつ終止符を打つのか。
この指標としても、私は前回紹介した「我十有五にして学に志す」を意識している。

私は四十を前にして、ようやくこの点については落ち着いてきた汗笑
つまり「惑わず」に少しだけ近づいた感覚を持っているw
(勘違いかもしれないがw w)

闘う相手は、自分のみである。

過ちて改めざる、是れを過ちと謂う

こちらは、第15パートから。

「過ちをしても改めない、これを本当の過ちというのだ。」

これは、本当に心に刺さる。
過ちを犯したこと、それ自体を過ちだと考えがちだ。
しかし、人間は誰しも過ちを犯す。
何度も犯す。

要は、その後の方が重要だ、その後を大切にしないことが過ちだということを気づかせてくれる。

仕事でミスをした時に言われた、とある先輩の言葉を思い出す。
「エラーをした後が大切だ。」
野球を長らくやってきた私に対する、わかりやすい例えである。

野球に限らず、どんなスポーツでもミスが起きた後にミスが続くことがあるのではないだろうか。
その時は、みんなで声を掛け合って、一旦リセットすると良いのだろう。
メンタル面が理由での再発は、よくあることだ。

しかし問題は、その試合が終わった後であろう。
「なぜそのミスが起きたのか?」
について向き合うことが必要だ。

「綺麗さっぱり忘れて、次頑張ろう!」
は、そのプレーの最中だけ適用されるべきである。
さもなければ、それ以降の成長はない。

もう一つ注意しなければならないのは、過ちを改めるとは、「引きずる」ということではないということだ。
ずっと沈んでいることが、改めると勘違いしている時期が子どもの頃の私にはあった気がする汗
その方が、反省していると周囲へアピールできるとでも考えたのだろうw w 

トライアンドエラーは、とても大切!
でもその次のトライは、分析・対策してから!
ただ単にトライするだけでは、過ちを重ねるだけだ!

むすびに(まとめ)

前回の〈本質〉のところで書いたが、私が何かにつまずいた時に読む理由が、これらの言葉にあるのだと、まとめて書き出すことにより再確認できた気がしている。
要するに、こうした言葉たちから、もう一度自分自身を見つ直すきっかけをもらっているのだ。

一旦脇で休憩し、背中を押してもらうことでもときた道へ戻っていく。

これが私の論語へ期待している役割、私の論語に対する信頼なのだと感じた。


以上です。

正直まだまだ良い言葉たちが眠っています!
でも、きっとこれからもまた論語を読んでいくのだろうから、その時にでもまたお伝えできればと思います!

本日も、ご覧いただきありがとうございました!!

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