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2020年コロナの旅8日目:アユタヤ、カオサン、人はなぜ争うのか

2019/12/24

早いもので、タイ最終日である。厳密には明日25日に出国するのだが、早朝に出るので実質的にこの日がタイを堪能できる最後の日なのだ。

受付でオムとポピーにバンコク北方の古都アユタヤに行ってみようと思うというと、ぜひ行って来いと勧められた。行き方を聞いて駅に向かう。Sam Yotという最寄りの鉄道駅からHua Lamphongというバンコク駅のすぐそばの駅まで電車で移動、そこからさらにアユタヤへの鉄道の旅に出る。

バンコクからアユタヤまでは1時間半もかかるのだが、料金はなんと片道たったの20バーツ(60円ほど)だという。

その価格には衝撃を受けたが、次の電車が来るまでは多少時間がある。しばらく周りをうろつくことにしよう。


駅のそばには藻で緑色になった水路があり、そこに小ぶりながら華麗な橋が架かっている。緑の下地に金色で装飾されたその金属の橋は同じく緑色の水路となかなかよく調和していた。


駅舎はコロニアルな建築で、極めて巨大である。駅の中にはフードコートがあるが、価格はどこも普通より高め。お腹がすいていたので仕方なく30バーツかそこらのベルギーワッフルを買って食べたが、タイの料理で肥えきってしまっていた私の舌には絶品というわけではなかった。


駅舎のなかで私の興味を引いたのは、「Reserved for monks and novices(僧侶とその弟子専用)」と看板の立つ仏僧専用待合スペースの存在であった。実際、そこには糞象衣を身にまとった僧侶たちのみが座っていた。タイの仏教国らしさが垣間見られた気がして楽しい。


駅の周囲に興味深いものが特になかったのであきらめて椅子に座って電車を待つ。1時間ほどしてホームに電車が到着、改札はない。


車中はそこまで混んではおらず、容易に座ることができた。相席になったのはコロンビアからの旅行者だという中年の女性、そしてインド系のオーストラリア人男性だった。女性はあてどもなく旅しているらしく、東南アジアの国ではどこに行けばいいだろうと我々に尋ねた。

私はバンコクとベトナムしか知らないため特に勧められるところはないが、ベトナムでひどい目にあったという話をした。すると豪男性も同調し、二人でベトナムの恐怖体験の披露大会となった。バックパッカーたちの間でベトナムは難所と目されている。しかしこの件についてはまた別稿に譲るとしよう。


あれやこれやと各々の旅の体験を話し合っているうちに列車はアユタヤ駅に到着した。アユタヤ駅は非常によく整備されたかわいらしい駅で、黄色を基調とした、これもややコロニアル様式の影響を感じさせる建築であった。

駅からアユタヤの遺跡のある辺りまでは少し距離があるらしく、駅では自転車かタクシーを借りるよう勧められた。豪男はタクシーを3人で借りて割らないかと言ったが、私とコロ女は自転車で気ままに周りたいと言って断り、3人はバラバラになった。


駅でもらった観光地図を基にしばらく歩くと、川に突き当たる。実はこれもバンコクでワットアルンに行くために渡ったのと同じチャオプラヤ川だという。日本にはあまりないスケールの大河に胸が躍る。川岸には船着き場があり、5バーツ(15円)で渡し舟が出ていた。排気ガスを噴出しながら向こう岸から船がやってくるのが見える。乗っているのは丸い黒眼鏡をかけた年配の僧侶のみ。痩せこけて船の舳先に立つ姿に孤高の趣があった。

まだ昼前の早い時間であったため、駅側から遺跡側に渡る観光客は多かった。僧侶が降りるとペンギンのように一同よちよちと乗船する。船が出発し、炎天下でほてった体に川の涼風を受ける。

ほどなくして対岸に着き、自転車レンタル店に行ってみる。一日50バーツ(150円)だかでレンタルできるのだが、貸し出されている自転車の殆どがなんと埼玉県警に防犯登録されていたのが面白かった。

日本から中古の自転車が送られてくるのだろうか。私は車体に「おつかれさまっ!」というステッカーの貼られた紫色のママチャリを相棒に選んだ。

勢いがいい。

レンタル店で人質としてパスポートの原本を要求されたのには驚いたが、他にしようがないので言われるがままにした。その際、身分証が必要と考えコピーを取ってもらってそれを持ち運ぶことにした。快くコピーをとってくれたのはいいものの、顔写真が真っ黒につぶれており少し不安になる。この時点では、二か月後、遠くブルガリアの地においてこの不安が現実的災厄として降りかかることになることは知る由もなき私であった。

黒つぶれのパスポートコピーをポーチに携える。炎天下のタイを「おつかれさまっ!」号は疾駆する。最初の目的地はバンヤンツリーに飲み込まれた仏頭で有名なワットマハタートである。


グーグルマップスを駆使しながら自転車でワットマハタートを目指すが、なかなか入り口が見つからない。同じようにまごついている観光客たちがいたので協力してなんとか入り口を見つけた。というか正確にはおそらく正規の入り口ではなかったのだが、とにかく門に辿り着くことはできた。入場料は50バーツ。タイは物価が安いので色々な場所に躊躇いなく入っていけて嬉しい。その気安さはすばらしい。世界中のどこにいても、このように気軽に色々な体験に挑戦できる程度の財力を持ちたいものだと思わされたのであった。金は自由なり。

入場料を払って境内に入る。はっきり言ってかなり野ざらしなので、外からも大体のものは見えている。それでも私がこの寺院に入りたかったのは、やはり仏頭のためであった。それが入ってみると仏頭を見つけるどころか、数多ある仏像の頭がことごとく切り落とされている。

立て看板によると、1765年からの泰緬(タイとビルマ)戦争で侵攻してきたビルマ軍による凶行らしい。なんちゅうけしからんことをするのだ、と思ったが、世界大戦において欧州の国々は互いの国の文化的に優れた都市や人々が愛する建築を選んで爆撃した。パリや京都など、一部の人々の働きで難を逃れた例はむしろ少なく、欧州に行けば戦争の爪痕を目にせずには1日を過ごせない。敵方の大事にしているものを破壊することによって戦意喪失させることを図るのは戦争の常套手段か。戦争には言わずもがな百害あるわけだが、嫌がらせのために文化的遺産や自然遺産が破壊されるのはなんとも悲惨である。


それはさておき、戦乱によって廃墟と化したワットマハタートではあったが境内は広く、またその遺構だけでも往時の壮麗さをしのばせるものであった。レンガの構造がむき出しになっており、バンコクで見学したいくつかの寺院とは全く異なる野趣があった。

当然、存続していたら素晴らしいのだが、遺跡には遺跡の良さもあるというものだ。特に、すたれてしまえば風化の早い日本の建築と違い、鉱物で築かれた大陸の建築は数百年風雨にさらされて今もなお残っている。日本人として異国情緒を感じずにはいられない。
多くの仏塔やお堂の遺構を見て回りつつ、いったい件の仏頭は本当にこの寺にあるのだろうかという不安が頭をもたげ始めた。頭だけに。おそらくアユタヤで最も有名な観光資源であることは間違いなく、さすればもしこの境内にあるのならばもっと大々的に喧伝されて良いというか、道標くらいはあってもよいのではないか。


こういう時は人の集まるところに行ってみるのが良かろう。仏頭自体はなくても何か情報は得られるかもしれない。仏塔の階段に登って辺りを見回してみると、果たして人だかりが目に入った。向かってみると、立派なバンヤンツリーの根元に仏頭がめり込でいるのが見えた。全く案内も何もなく、ただ近くの看板に、「不敬なので見下ろすような姿勢をとったり、上方から写真を撮ったりしないでください」とだけ書いてあった。なるほど、案内がないことも、この仏頭が地元の人たち、少なくとも寺院の守護者たちにとって観光資源ではなく純粋な信仰対象であるからこそのことかもしれない。看板を読んでか読まずか、上から無遠慮に写真撮影しているものもあったが、私は跪いて合掌してから地面に腹ばいになって撮影することにした。誰が監視していたわけでもないが。

目当ての仏頭を拝み、腹も減ったのでこのあたりの名物だというクイッテイアオ・ルアという牛の血のスープの麺を食べに行くことにした。

その料理で最も有名な食事処はワットマハタートの目と鼻の先にあった。横断歩道も信号もない上に交通量の多い4車線の道路を自転車で渡るのは恐ろしかったが、皆当たり前のように渡っていくのでそれにならう。渡った先の道に面したその店は広々としていて、大いに賑わっていた。

適当な席に案内されて、肉の種類を選ぶ。トッピングは牛と豚があるらしく、私は両方食べることにした。一杯15バーツ(約50円)と聞いて驚愕したが、なるほどこれは大ぶりなわんこそばだ。日本の飯椀くらいの大きさの椀の真ん中にちょこんと緬が巻かれ、浅いスープに半分浸かった上にもやし、空心菜、肉、魚のすり身などの具材が積まれている。2、3口で食べきれる量だ(そういえばベトナム因縁の地フエにて食べた旨きシジミ飯、コムヘンも似たような金額と量だった)。

まずは血が使われているというスープを恐る恐る啜ってみると、血の存在感は言われなければ分からない程度で、見た目の強烈な赤茶色さに反して優しいうまみがあった。生臭さは少しもない。あっという間に2杯完食して、もう2杯頼む。暑気払いにコーラも一瓶頼んだ。そういえばコーラを呑みたくなるような爽やかな暑さを感じるのはいつぶりだろうか。京都の夏は暑すぎるし湿気がまとわりつくので水しか飲む気がしないのは私だけか。アユタヤの暑気には爽やかさがあった。道に面した部分には壁がない典型的なタイのレストラン。気温は30度を優に超えるが、冷房が聞いているわけでもないのに、日陰に入れば汗が引いていく。洞窟の入り口のようにほのぐらい店内から白昼の猛烈な日差しにさらされる外の風景を見ていると自分の置かれている状況の快適さに嬉しさがこみあげてきてコーラで祝杯を挙げたくなる。日本でも田舎の方に行くとこういうところがあるが、アユタヤのような都市でこのような感覚を得られるのは嬉しい驚きである。

コーラが運ばれてくる。瓶の3倍くらいの長さのストローが添えてある。

コーラを飲みながらぼーっとしているとあっという間に追加のクイッテイアオも供された。緬を啜っていると隣のテーブルにインド系らしき風貌の男と白人の男の二人組が座った。テーブル間の距離が近かったので彼らの会話が聞こえてくる。1杯ずつしか頼んでいないようだったので、それでは足りんかもしれませんぞ、とおせっかいを言った。するとインド系の男が、ベジタリアン用のオプションはあるだろうかと聞いてくる。知らんが肉なら抜いてもらえば良かろうと言った。白人は豚と牛を一杯ずつ、インド系は英語をあまり解さない店員に苦労して肉なしをこれも二杯頼んでいた。ベジタリアンというのは伝わらなかったようである。その後彼らの麺もすぐに運ばれてきた。食べだしてしばらくしてから、仮にそのインド系の男がヒンドゥー教徒だったら牛の血はまずいんじゃないかと気づいた。牛の血を食べることに慣れていないのでうっかりしていた。しかしもうスープを飲んでいる今、教えるべきなのか。Ignorance is bliss. 知らぬが仏。結局、今更教えても覆水が盆に返るわけでもなく胃の中の牛血が椀に戻るわけでもないので黙っていることにした。敬虔な信者なら怒るかもしれないし、そこまで気にしない人なら知っても知らなくてもいいだろう。ベジタリアンであろうという意志を示したことに満足している状態の方が幸せではないか。どちらにせよ、その男や私、そして先ほどから無口な白人の男、ひょっとしたら店の者たちの気分を害する結果を導きかねないので藪をつついて蛇を出すようなことはよすがよかろう。トルコ、ムスリム研究の大家であられる内藤先生が、日本でも醤油に添加されているアルコールに激怒したムスリムがいたと仰っていたが、そういうアブラハムの宗教らしい騒ぎは似つかわしくないアユタヤの土地。

80バーツだか置いて店を出て、埼玉の自転車でアユタヤの遺跡群を引き続き見て回ることにした。翌日の早朝にスウェーデンに行かなければならないので早めにバンコクに戻りたかったこともあり殆どの寺は外から見るのみだったがそれでもタイムスリップしたような感覚を十分に楽しめた。道端に路駐された象など圧巻であった。


アイが勧めてくれた三つの塔のある、アユタヤ歴史公園を見学して帰途に就く。

途中で地元の甘味だというロティサイマイという糸状の砂糖(糸糖?)を包んだクレープを食べた。

鮮やかな緑色に着色されたいかにも甘そうな見た目に躊躇したが、食べてみると意外とあっさりしており美味であった。タイではまずい飯というものに出会ったことがない。


バンコクの王宮等の観光地は外国人価格が高めに設定されていたが、アユタヤはどこもだいたい50バーツ程度のようであった。自転車を返し、パスポートを無事に返してもらい、渡し舟に乗って対岸に渡り16時ごろにアユタヤ駅をバンコクへ向けて発つ。


2時間ほどの列車の旅。まだ暖かいが日は傾きはじめ、窓を開けて風を受けていると多少の涼しささえ感じる。これがタイで最後の夕べと思うと感慨深い。


バンコクにかなり近づいたところで何か大きな駅を建設している。

ベトナムのハノイを訪れた時と同様、建設ラッシュを感じる。バンコク駅におりたつと、行きしには気づかなかったカルビーの「かっぱえびせん」の大きなポスターが目に入る。

ここはまだアジア。明日からは遠いヨーロッパで当て所もない旅が始まる。

バンコクから宿の最寄り駅に戻り、駅に日本国旗とタイ国旗が並べて掲げてある盾が設置してあるのが目に入った。近づいて見てみると、その鉄道敷設にあたり、日本から援助があったようである。

こういった盾を掲示するのも、むしろタイの器の大きさのようにも思われる。どことは言わないが、こういうのをあえて掲示しない国もあると聞く。


最寄駅から宿へ歩く途上でセブンイレブンに寄った。サンタクロースの衣装を着た少女が二人店内ではしゃいでいる。今日はクリスマスイブか。ヤクルトの小瓶を1本買って店を出る。ベトナムや台湾での経験を活かし、タイに滞在中も乳酸菌飲料、特にあればヤクルトは欠かさず飲んだ。そのおかげか何を食べても腹を下すことはなかった。
店の前の屋台で野沢菜のおやきのようなものを売っていたので、一つもらってみた。

20バーツ(70円)ほどだったか。食べてみると、野沢菜のおやきのようなもの、というよりは、野沢菜のおやきであった。おいしかったのでもう一つ買ってみる。
宿への途中、ふと思いついてバンコクで最初に訪れたお寺を再訪することにした。すっかり日が暮れて夕闇に包まれた境内のいたるところに設置されたスピーカーからは、何やら劇的な音楽と効果音、そして芝居がかった声が響いてくる。クリスマスイブだからか、境内で映画かなにか上映しているらしい。
広々とした境内をぶらぶら散歩していると、幼いシッダールタの像がクリスマス色に装飾されているのを見つけた。七色に点滅するフェアリーライトにぐるぐる巻きにされながら天上天下唯我独尊の印を見せて微笑んでいる。

自己肯定ここに極まれり。自分に確固たる自信があるから朱に交わろうと藍になろうと恐れることがない。
もそっと歩くと大きなスクリーンが設置されているのが見えた。音量もここが一番大きい。近づいて裏に周ってみるとやはり映画を上映していた。パイプ椅子の客席は観客でぎっしりしている。

クリス・ヘムズワースのStrong 12は興味のある映画ではあったが、タイ語の吹き替えは分からないし、人混みも苦手なのでやめておいた。


宿に戻ると欧米の観光客たちがテラスで遊んでいたので、混ざることにした。強烈なタイの米焼酎をやりビールで流し込むも、明日は早いし深酒はいかんと思いロビーに避難する。

こいつ、かなり特殊な薫りがする。ジェロームはいつも半裸。


「今日も延長する?」
オムが聞く。
「いや、明日の朝にはもうスウェーデンに発たなきゃいけないんだ。」
すると屯していたタイ人と韓国人たちが、門出の祝いをするぞ!と盛り上がりだした。とても嬉しかったが、翌朝が早いのでまごついていると、まあ一杯くらいやろうやと連れ出される。私は、それなら折角なのでテラスの欧米人らも連れて行こうとと言い、欧米グループも巻き込んで大所帯でカオサンロードに繰り出した。


カオサンの中でも奥まったとことに、オムの顔が利くバーがあり、そこへまず行ってみる。当然1杯で済むわけもなく、ビールや謎のカクテルを際限なくあおる。

次はクラブに行くぞと誰かが言い出す。私はさすがに翌日のことが心配になり、ここらでお暇するよと言ったが、欧米グループの者どもが、
「お前が来いと言うから来たんだ、一番先に帰すわけにいくか。」
と言う。そういわれると帰りづらいし、そもそも私だって飛行機が心配なだけで夜遊び自体は楽しく、帰りたいわけではないのでずるずると居座ることになった。オムが用心棒に話をつけて、クラブに割り込み入場する。


みんなでひとしきり踊って酒を飲んで遊んでいると、突然ミンが隣のグループのやから共に囲まれ、殴られた。慌てて我々が間に入るが、向こうの怒りは収まらない。タイ人たちのグループで、どうもミンが踊っているときにそのうちの一人の足を踏んだか何かしたらしい。ミンは慌てて謝ったのだが、酒か何かの薬でいきり立った男たちは収まらず、とりあえず一発ぶん殴ってみた、ということのようだ。我々男たちが揉めている間、双方のグループのタイ人女性たちが言葉でいろいろと和解を試みていると、山のように巨大な用心棒がやってきて我々外国人グループに突っかかってきた。タイ人勢が事情を説明してくれて、用心棒が仲裁に回ってくれたため事なきを得たが、ちょうどいいタイミングなので私は帰ることにした。

帰り際にオムが、
「明日何時に出るの。」
と聞いてくる。
「9時35分のフライトだから、7時には空港にいたい。出るのは6時くらいになると思う。」
「明日デシ―が駅まで車で送るよ。出る時間になったら1階の角部屋に入って起こしなさい。」
デシ―はにっこり笑ってうなずく。すばらしい提案に感動して、オムとデシ―にお礼を言って宿へ戻った。思えば酒も何もかも支払いをしていない。どうしたもんか。


しかし旅を初めて日も浅く、飛行機を逃す危険が頭の片隅に去来して気が気でなかった私はさっさと帰ることにした。シャワーを浴びてバンコク最後の眠りにつく。

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次回予告

2019年12月17日に始まった私の世界旅行。1年越しに当時の出来事を、当時の日記をベースに公開していきます。

次回は2019年12月25日分です。1週間ほどの滞在の間私の心のよりどころとなった宿とスタッフ、宿泊客たちとの別れと、別天地スウェーデンのクリスマス的体験について。

※旅行中のため次回の更新は12/28になります。

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