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2019/7/31「絶望には銃口を。そして世界に希望を。」

 友人と映画館で「天気の子」を観た。正直なところ、そんなに期待をしていなかったのだが、驚くほどに感動してしまった。今の私のために作ったのかと思うほどに。

(※以下、少々のネタバレを含みます。ご注意ください。)

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 私は、これまで20年という時間を生きてきた。だから私の思考は20年分の思考で、私のすべては20年分でできている。そして、それはどうやって超えられないものである。もし、あなたが私と同じ価値で40年の時間を積み重ねてきたのだとしたら、私はどうやってもあなたの40年分を超えることはできない。

 ここ最近、私の悩みはそこにある。私が持つ20年分がとても未熟に思えて、あなたの持つ40年分が欲しくて、堪らないのだ。

 「天気の子」の場面の中で、少年が警察に追われ、囲まれるというシーンがある。そして自分の足元にあった銃を拾い上げ、自分を取り押さえようとする大人たちに向けて、少年は震えながら銃を構える。

 この場面を見て思わず、教育の持つ抑圧性と似ていると感じた。

「子どもは未熟で、子どもは大人に比べて劣る存在である」だなんて面と向かって大人は言わないけれど、確かに彼らは自らを上の存在だと無意識に思いながら、善人であるかの如く子どもに接する。そうして気づかないままに、それが正しいと信じて疑わないままに、子どもを抑圧する。

 そんな大人に対して銃を構えた少年の姿に、自分の本心を見た気がした。

「この世界は夢と希望にあふれているものじゃない。現実をみろよ。」と言いたげな大人たちに対して、私は絶望したいのではなくて、銃を構えて「くそったれ」と言いたいのだ。「この世界は夢と希望にあふれていて、幸せで、温かくて、綺麗なものなんだ。」と、私は言ってやりたいのだ。


 これ以上のネタバレはこの作品の魅力を損なってしまうような気がするのでやめておくが、つまり、私はこの作品が、「子どもであっていいのだ」と、「世界はまだ綺麗なものなんだ」と伝えているように感じたのだ。だから私の超えられない20年を悔やむ必要なんてない。残りの人生に絶望する必要もない。私の持つこの未熟さは「希望」であって、大切にしてもいいのだと、そう言われているように感じた。
 

 この映画を観た帰り、自転車をこいで家に帰っていたら、人々が立ち止まって空を見上げていた。なんだろうと思って私が後ろを振り向くと、綺麗な淡いピンク色の夕焼けが空一面に広がっていた。「嗚呼、世界はまだこんなにも美しいじゃないか」と、私は生きる喜びを感じたのでした。こんな風にロマンチストな自分も、まぁ嫌いにならずにとっておこうかなぁなんて。

だから、

「絶望には銃口を。そして世界に希望を。」

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