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2019/12/30「きみはいい子」(映画評)

 親になれば、自然と子どもが愛しく思える。ともに生活するうちに愛着が湧いて、子どもが無邪気に笑う姿を親は愛してしまうのだ。

 子どもはいい子だ。未熟で白紙の状態だから知らないだけで、知らないから時に子どもはいたずらをしてしまうのだ。そうだ、いじめだって子どものいたずらだ。純真無垢だから、知らないから、彼らは時に人を死に追いやるのだ。


 哲学者である中村雄二郎は、こうした暗黙の前提を〈見えない制度〉といった。私たちは常に〈見えない制度〉で縛られている。それは人間が共に生きる中で持っている、持たざるをえない習慣のようなものだ。「親は子どもを愛するもの」「子どもはいい子」これらの暗黙の前提は私たちが持つ〈見えない制度〉である。果たして、現実は本当にそうだろうか。親と子は一番近い存在だからこそ煩わしく、最も感情をぶつけられる存在なのではないか。子どもは何も知らない存在か。彼らは私たちが思う以上に様々なことを理解し、理解していながら残酷な行為をするではないか。


 虐待は罪だ。しかし、私は時に思うのだ。虐待をする親の気持ちが本当に分からないだろうかと。私に子育ての経験などないけれど、それは想像をこえる辛さだ。自分の手を煩わせるその個体を、憎く思う瞬間はきっとあるだろう。


 それでも、あの小さくて細っこい腕で抱きしめられると、私はその体温を感じずにはいられない。その小さな個体に愛を感じずにはいられない。愛は綺麗ごとではない。単純な正義で語れるほど、甘いものでもない。憎しみを含みながら、それでも確かにあたたかく、美しい。


 映画(「きみはいい子」)の中で小学校教師が「家族に抱きしめられてくること」を宿題とした。それに対する子どもたちの反応が実にリアルで、面白い。作品を視聴する前はタイトルに対して疑問を呈したかったが、視聴後にそのようなことは必要ないと分かった。人間が人間であることを認められることが自分の願いであることを、メタ認知する時間だった。


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