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意味を問う、遊び場の計画

KOKŪ (虚空)という居場所をつくろうと思っています。イメージはTOPの写真(豊島美術館)のような感じです。虚空とは、 何もない空間で、何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所という意味の仏教的な概念で、アーカーシャ(Ākāśa)とも呼ばれています。

ホモサピエンスが誕生して約20万年(諸説あり)。神話が生まれ、農耕が始まり社会が生まれ、まつりごとが催され、書記が体系化され、経済が始まり、交易が生まれ、国家をつくり、科学が発達し、現代に至るまで社会秩序は強固になり続けています。

それはつまり常識と呼ばれるものの数が増えていったということで、例えばお金とは富である、男とは力強いものである、音楽とは音を楽しむものである、働くことは義務である。などなど。。

常識は常識として1つの観点であるから正しい、間違っているの二元論で語るべきではないですが、人の価値観とは流動的であり、意味や文化を孕んだ”時代”とは動き続けるものです。だからこそ、固定された常識と流れ行く時代の摩擦は時に、ぼくらを疲弊させてしまいます。

ここ数十年で人口は指数関数的に増え、少なくとも近年まではムーアの法則の通り情報処理技術も異常な進化を遂げ、ディープラーニングにより人工知能も今後更なる発展を予感させ、2045年には人工知能が自らより更に進化した人工知能を生み出す技術的特異点(シンギュラリティ)が予測されています。

毎年、世界中のソースは40エクサバイト以上の情報を作り出しますが、これは過去5000年の間に世界中で作られた情報量を超えるものです。文明論的も大きなパライダイムシフトの最中にいる現代、ぼくたちは過渡期の真っ只中に生きています。

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こんな時代だからこそ、緩やかに概念を更新していく役割がぼくらにはあるような気がします。そこで、自分が計画しているのは「意味を問う遊び場」。名を「KOKŪ」と発します。

概念や意味の多様性を確保し、トランスレーションに通ずる文化を耕すための居場所です。

本記事はその計画の一端を公開して
具現化に向けた歩みを加速していきたいと願うものです。

KOKŪとは何か

まず、既存の概念に置き換えることが容易でない新たな概念を試みるため、現状は抽象度の高い表現になってしまう事をお許しください。

あえて1つの言葉に置き換えるなら「アート」でいいと思っていますが、より具体的に表現していくなら神社と寺とクラブとリトリートセンターとカフェと家の1部の機能を混ぜ合わせてつくったスペースになります。

目的と機能から紹介していく事で、輪郭が見えてくるかと思いますのでまずは目的から。

序文にも記載があるように、KOKŪとは概念や意味の多様性を確保し、トランスフォーメーションに通ずる文化を耕すための居場所です。

概念や意味の多様性というのは、例えば「”移動する”ための”車”」「”住む”ための”車”」「”ペット”としての”車”」「”トぶ”ための”車”」や「”伝達”としての”言葉”」「”音”としての”言葉”」「”お祭り”としての”言葉”」「”シャワー”としての”言葉”」などなど、既存の概念や紐付く意味は全て流動的で多角的で”あなたが考える余地があるもの”という文化を、基本フォーマットとして表現、醸成していくことです。

トランスフォーメーションに通ずる文化というのは、変態していきやすい環境作りということになりますが、どう変態していくのかということをKOKŪでは示しません、ただ変態し続けるだけです。その最中に新たな想像の矛先が生まれ、人類は叡智を養い存続してきました。今と未来がいい感じであるためには、変態し続け想像力を絶やさないことだと考えます。万物は動的だから安定しています。

そして何より大事なのが居場所となること。リバ邸やソーシャルフェスなどぼくの全ての活動は居場所づくりに通じています。誰のためのどんな居場所づくりなのかというと、ここじゃないどこかを求める人達が自ら居場所をつくっていけるための居場所づくりです。

世界はそれぞれにあって、観察者が変われば世界は変わる、という精神論的(でありつつ本質的)な話でもありますが、そういったマインドになるまでがまず大変です。共感しあえる仲間のような人達がいることだったり(分かり合えない事を分かり合えるということも含めて)、自然に近い環境であることだったり、狂える体験をすることができたり、時に空となったり、安心と自由が居場所を生み出していきます。

なぜ居場所が必要か、については”みんなでいい感じで生きていくため”以上に言葉が必要でしょうか。”概念や意味の多様性を確保し、トランスフォーメーションに通ずる文化を耕すための居場所”これがKOKŪの目的です。

誤解を恐れずにもっとシンプルに伝えるなら「遊ぶため」と言ってもいいです。個人的にはThis is Entertainment.です。

予防医療としての音楽/KOKŪ Vibes

ここからは機能について。機能はご縁に応じて柔軟に拡張していく心算でいますが、まず形にしていきたいのが予防医療としての共同音楽体験(ライブ)というコンセプト。

司馬遷の『史記』曰く「音楽とは血脈を変動させ、精神を流通させて、心を和し正すものなり」と記載がありますが、音楽、つまり1種の振動波は高周波がコップを割り、重低音が床を軋ませるように、人間の臓器にも影響を与えます。約800年前に中国で生まれた「中医五臓導引術」という養生法では、五臓(肝、心、脾、肺、腎)と五音(角(ミ)、微(ソ)、宮(ド)、商(レ)、羽(ラ))は対応するとして手印と坐法と旋律の歌唱を連動させ、心身強化と安定を図ってきたとされます。

現代生物学においても、人間の行動は意識よりも先にあることが分かり、物理的な振動、周波数が意識に及ぼす効果を確かなエビデンスがないながらにも、蔑ろにはできないと考えます。

また、世界中すべての民族に歌があると言われるほど、文化的にも僕らが共同体としての認識を保ち社会を維持するためには、音楽や踊りは必ず必要とされていた背景があります。

現代は病名こそつけられないながらに「なんとなく体調が悪い」「気分が晴れない」といった症状が蔓延し、都市化の副作用とも言える自然との剥離、人間関係の希薄さ、相対的幸福論による自己否定など動物として自然な状態から離れ、経済成長という生物的には不自然な潮流が齎す現代病とも言えるでしょう。

それに対して音楽の共同体験(ライブ)はその予防、ないしは処方箋になっていくポテンシャルがあると考えています。

意識が1秒間に処理できるデータ量は40ビットほどなのに対して、無意識が処理するデータ量は約1100万ビットといわれていますが、音楽や環境の制限を持ってして意識から離していく(無意識、変性意識に近づいていく)技術をアーティストやオーガナイザーは持っています。

無意識に近づき狂うことで、僕らは抱える課題のどうでもよさに気づくでしょう。解決しないの?と思うかもしれませんが、そもそも解決すべき課題などこの世にはほとんどないのです。表面的でない真の繋がりを感じ、意識的な日常で触れることのない感性に触れていきます。スピってる感じに聞こえるかもしれませんが、体験したことがある人なら納得できるはずです。

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具体的には上図のように五行思想に対応させたライブプログラムを組み、5日間で仕上げていくクレイジーリトリートプログラムを企画しています。

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内装は曲面のみのドーム型構造で全ての音響機材も白に揃え、白しかない空間演出をイメージしています。更に空間に強く白い光を当てることで、遠近感を無くす錯視を生み出し無限の白が広がる、まさに虚空的な空間づくりを目指します。ソウル在住のアーティスト、リギョンの「逆転移」という展示で錯視感を実際に体験してきましたが、凄まじいものでした。

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都市的なライブカルチャーは時に”アンダーグラウンドカルチャー”と言われますが、KOKŪ Vibesは大衆的なカルチャーより更に抽象度が高い”オーバーグラウンドカルチャー”を耕します。日常のストレスを暗い空間で爆音と酒とタバコにまみれて消費するのも、また一興ではありますが、一方で日常を明るく解釈していくための明るすぎてアガる場も求められている気がします。

アルコールに対をなすエリクサーとは、アメリカ西海岸で流行中の酒に代わるような新しい飲料です。マカやカヴァなどが頻繁に使われる、お酒に似た酩酊効果もあるナチュラルドリンクで、霊薬の総称です。(もちろん合法)二日酔いのリスクもなく、健康的なものばかりなのでエリクサーカルチャーも文化に和えていきます。

祈りとしての食時

美味しい食事、健康管理としての食事、ステータスとしての食事
コミュニケーションとしての食事、美術としての食事
そして、祈りとしての食時。

食べ物を選ぶ以上に、いただきますの所作を選ぶことを重要視するカフェのようなスペースです。食事の物語と、その時の自分の物語を重ねて味わう祈るような食の時間を作ります。例えば、仏教、キリスト教、イスラム教、それぞれに食事の意味合い、それに紐づく所作が違います。日本の中でもアイヌの所作、鶴さん亀さんといった寓話から生まれた所作まで多岐に渡ります。

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オリジナルの所作と神話、それに紐づく食事のメニューも開発し、自分自神と向き合い祈る手段としての食時というコンセプトを表現します。

おわりに

思った以上に記事が長くなってしまったので妄想祭りは一旦ここまでにしておきます。その他にも「企業研修としての哲学対話」や「シェアとしての隠居」など色々と搭載したい機能があります。

本記事の目的はこのプロジェクトを加速させること。実際にKOKŪを具現化していくための土地や資金がまだない状況で、プロジェクトに乗ってくださる方を大募集中です。運営していくにあたっての具体的なマネタイズの面も見えているので、投資に興味を持っていただける方にもご説明に伺えればと思います。

ただ、投資というよりもコンセプトへの共感や、既に近しい土地運営をされていてそれをより強化していきたいという方々と、共に文化を耕していくという心もちで共創できればと思い、具体的な仕組み面は記載しませんでした。

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なんと最後に自己紹介。笑
僕は音楽フェスのプロデューサーを生業にしている人間で、Ozoneという3年目のベンチャー企業の代表をやっています。

前述にアンダーグラウンドとオーバーグラウンドの記述をしましたが、これは大衆的な文化(目の前の世界)と霊性的な文化(目に見えない世界)の2項として位置付けることもできます。そして、サイエンスが徐々に宗教的と言われていた事柄を物理として解き明かしていくように、両項の距離は今後より近づいていくと予感しています。

そして1969年のウッドストックフェスティバル、70年のグラストンベリーフェスティバルから生まれたフェスティバルカルチャーという文化は、ちょうどその折衷点として両項を結んできました。

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フェスティバルは現代でこそショーケース的な消費もされていますが、グラストンベリーフェスティバル最初期のプロデューサーであるデイヴグッドマンはこう遺しています。

音楽は神秘的な部分を呼び起こすもの。
祭りのなかに必要な要素がすべてある
それはすべて自然に調和している。
楽しみながら持続可能な社会をつくっていく。
- SEX PISTOLSプロデューサー 故デイヴ・グッドマン

フェスティバルを更に遡ると祀りとして神事であったり、そもそもアンダーもオーバーもないような世界線に突入していきます。

時代と共に概念は細分化され、効率的に市場を作り産業を興せるようになりましたが、分け隔てることで無用な争いや消耗が起きている側面もあります。KOKŪのような試みは新しく見えるかもしれませんが、概念がまだ統合されていた時代においてはきっと存在していたようにも思います。

意識を曖昧にして、上と下を結ぶ環境設計や文化醸成は恐らく自分じゃないとできないという感覚があります。そもそもこれが必要とされているかどうかというのは、各々に寄るところですが、少なくとも自分自身はそんな居場所を必要としている。だからつくりたいと思ってます。

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雨宮 
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雨宮参照記事


「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。