メタモンってメタなモンスターの略なのだろうか。それが人間のメタだとして技が「へんしん」だけなの仕込む意味が深すぎてやばい。

タイトルは出落ちです。

「メタバース」という言葉が一般的な用語になって久しい。
VR、AR、MRなどデジタルテクノロジーを使った仮想現実、拡張現実を指す。

未来がやってきた!とワクワクする人もいるだろうけど、自分はまだこのくらいの概念にメタバースという言葉を使わないで欲しかった、、!と思っていて、そんなことについて書きたいと思う。

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既存のメタバースという概念は、デジタル世界とフィジカル世界は次元の違う関係にある(メタ的である)ということを指している。

でも本当にそうなのだろうか。僕らはもう漢字を思い出すとき脳内から引っ張るよりも先にスマホのキーボード変換に委ねているし、SNSでの誹謗中傷を「所詮メタの世界だから」と受け流せる人も多くはない。

少なくともうフィジカル=リアルで、デジタル=フィクションというのは通り過ぎた価値観で、フィジカルもデジタルもリアルであり、メタ(辞書的には”高次の”という意)で橋渡しするような関係にない。

そしてフィジカルもデジタルも内包したこのリアルな世界においても人それぞれ世界の範囲が異なる。下図はソーシャルフェスラボの最初の講義で使っている図。

私という個人の意識までを世界と呼ぶ人もいれば、家族や職場、地域関係くらいまでをそう呼ぶ人もいるし、人間界まで、生物圏までをそう呼ぶ人もいれば、時空を超えて大不思議や阿頼耶識と呼ばれるところまで世界とする人もいる、そしてそれ以上もある。Word is mindである。

加えて人それぞれに別の意識系があるとされている(一方でシミュレーテッドリアリティ仮説も否定できない)し、兎には兎の、蛙には蛙の世界があり、これを環世界と呼ぶ。

自分はメタバースを、せめて環世界間の橋渡しくらいに使って欲しかった。
欲を言えばこの宇宙ではないマルチバースへの橋渡しくらいの意味で使いたかった。ヴィトゲンシュタインには叱られるかもしれないが、不可知こそ技術がハックすべき範囲だろうと思ってる。

「メタ」という言葉は自分のアーティストステートメントにも頻出するが、実に流動的な言葉だなと自戒していた。なぜならメタという言葉が差す移動先は話し手と聞き手それぞれが現在どの世界に住んでいるかによって規定されるから。

フィジカル→デジタルな人もいれば、生物→物質な人もいるし、4次元→5次元と言いたい人だっている。なんとコモンズになりづらい言葉だろうと思った。

言葉は観念の創発現象で、育ってきた環境が違うからすれ違いは否めないけど、社会を人類たちの創発現象とするならば、言葉(コモンズ)を用いて集合する我らにとって1つ1つの言葉に存在する無数のレイヤーを出来る限り認知しようとする行いは、より大きな社会を創発していくことになるだろう。

自分は目的地に向けて社会を発展させていくことよりも、変化し続けるためにはどうすれば良いかという運用方法に興味があるし、そのプロセスにおいて切なくとも刹那的な時間を少しでも祝い、慈しみ、恐れを解いていくか、あるいは永遠と代謝が共存するアナザープランを模索したい人だから、短期的な社会成長というスケールはそんなにフォーカスしていないにしても、今日より明日が少しでも優しくなるようならその方がいい。

社会に属する1人間としてメタバースはVR、AR、MRなどデジタルテクノロジーを使った仮想現実、拡張現実のことを指した用語として使ってはいくけれど、本当に仮想して拡張して欲しいのは、現実ではなく現実を生み出す1人1人の認識で、この世界自体が既に1つのメタバースであり、それを超えていく意味でメタバースという概念が使われてからがやっと本番だなぁなんてことは、こっそり思っている。


「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。