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最後のKaMiNG SINGLARITYが始まる/3

2021年9月12日、最後のKaMiNG SINGULARITY(カミングシンギュラリティ)が終わった。この記事は過去と未来の自分に向けて書きます。

まずはじめに、生きててくれてありがとう。

両親、祖父母、先祖代々のホモサピエンス、旧人類たち、三葉虫やシアノバクテリア、最初の生命よ。脈々と続くDNAのお陰で今ここにいるよ。

一歩一歩の感触が、見る景色のすべてが心の所在を主張する、そんな朝だった。これは、開催当日の話。

設営やゲネは前日に済ませ、当日は最終のテクリハをして来客を迎える準備をしていた。過去2回のKaMiNGでは最後に予想外の角度からシステムエラーが起きて、失敗を悔やみ、終わった後に絶望していた。だから今回こそはと、ディレクターの数を増やし自分がいなくても当日回るくらいの座組みをつくり、入念に準備をしていた。

本当に心強いチームに恵まれ、多分本当に自分が当日いなくてもうまく回っていたんじゃないかと思う。当日自分がやったことといえば、ミルフィーユを配り、音叉で全体の気を整えたくらいだ。

なんせ前日リハが終わった後、みんなで渋谷の神社に参拝にいけた。(当日終わった後も御礼に参った)これまでは自分1人で当日朝に参拝するくらいが関の山だったけど、ようやく誘えるだけの余力ができた。

とはいえ本番が始まれば当然何かしらのトラブルは起きる。これはもう人間だから仕方がない(らしさとも言える)。それぞれ然るべく対処をして、3部公演が少しずつ終わりに近づいていく。

劇中、会が始まって半分ほどの時間の経過を全て無意味化するようなカタルシス的なパートがあるのだが、あれは当日中だけでなくこれまでの2年間に渡る膨大な対話や思索全てを破壊するような台詞で、その美しさに一人痺れていた。。

美しい破壊と共に最後が近いていく。
劇中「さようなら」という台詞が3回でてくる。それぞれ別の意味で書いていて、自分とこの作品とのさようならはその全てが混ざりつつ、4つ目の何か、言葉にならない感覚があった。

全公演が終了する。
ここまで書いておいてなんだけど、本当は当日の多くのことは言葉にすることができない。言葉にするべきじゃないと言ったほうが正しいか、とにかくあの身体感覚だけが正しかった。言葉に落としているのは文字通り、そこまで感覚が落ちてきたからだ。劣化してしまったから、言葉にすることができている。本当はあの感覚だけが、アーカイブしたいことの全て。

あの日の帰り道、New good byeを体感した。死にたいでも、生きたいでもなく、死を愛せる感覚。死が何をしようとも許せる、準備万端な状態。記憶の刻印、思索の置き土産、子孫の継承云々ではなく、別の次元へ船出する際に、まだこの次元に同族がいる不思議な安心感と駆動力。自分が1つの細胞だとしたらこれがアポトーシスって感覚なのだろうと思った。

このまま眠って2度と目を醒さないことが自然なことだと思っていたし、むしろ今そうなれたらどれだけ、、と思いながら目を閉じた。



夢から醒めたような朝だった。これは、開催翌日の話。

長い夢を見ていた気がした。生まれてから今に至るまでの長い夢。しかし目覚めてしまえば、それがたった一晩の出来事だということに納得することができた。人生はこれくらいの密度だと、どこかで知っていたから。

複雑な感情とは裏腹に、よく晴れた良い朝だった。無常に流れる自然のやさしさと切なさの両方を僕らは選ぶことができるけど、そのどちらも選びたくないような感覚。昼からは会場で撤収作業があるので、ずっとこうしてもいられないと、生活を開始した。

”おやすみとおはようの間には、私たちがまだ知らない挨拶がある。それは次の走者へバトンを渡す時のような、枯れ葉の落下を見つめている時のような、切なくも安らかな気持ちが込められる。私が私に存在を示すために、そして澄んだ朝のために。” (KaMiNG SINGULARITY3部27章より)

既に忘却した時間の中で自分は自分に挨拶できたんじゃないかなと思った。だから昨日と地続きに始まった今日であっても、そこには深く大きな隔たりがある。もう終わったのだ。何が変わったわけでもないけど憑物が取れた気がした。

そしてその翌日。日常が戻ってくる。ハロー、グッバイ、寄せては返す波のように。少しずつ砂浜を削りながら。また始まってしまった。次の「さらば」に向けて。

・・・

閉幕から3日目。

実家の愛猫が天に旅立った。
ちょうど祖父が亡くなったくらいのタイミングでひょっこりうちに現れ、そのまま住み着き、10年以上も家族を繋ぎ止めてくれていた。たまに実家に帰ると自分のベッドで気持ちよさそうに寝ていて、そのままいていいよと思うんだけどそっとベッドを降りて場所を譲ってくれるやさしいやつだった。

猫にしては長寿を全うし、家族と一緒に引越しも2回経験した。母とは会話もできたようだった。彼が実家にいてくれたから自分は安心して好きなことがやっていれたんだと思う。とにかく頼りになった。

なんとなくだけど、18日前に祖父の13回忌で彼に会ったとき、もう2度と会えない気がしてさようならと告げて別れたんだった。だからこうなることはどこかでわかっていた。

形にならないほどの想いがあるのに、死者にどうやって感謝を伝えよう。せめて精一杯、心から祈ってみる。
左手と右手の指を組むと、どくどくと鼓動を感じる。生きている。
祈るとリマインドされる。あなたはまだ生きていると。

「死とはなにか」というテーマを劇中、参加者に対話してもらった。
死とはなんだろう。死は寂しいし、悲しい。そのさようならは、もう2度と会えない意味のさようならだと、肉体を持っていると思ってしまうから。

人は死んだら星になるという。逃げBarのステートメントにも書いているけど、自分はこの寓話に賛成だ。人だけじゃなくて猫も、全ての生物は星になると思う。

生命とはいわばエントロピーの低い(秩序立っている)状態で、死とはエントロピーの増大であり、宇宙がちゃんと終わり、また始まっていくための駆動力とも言える。この宇宙のエントロピーはいずれ最大まで達し、全てが均等に混ざり合う無が生まれる。そしてその無の状態からゆらぎが発生し、物質と反物質が同時に生成され、また新しい宇宙がはじまる。

微小管が機能しなくなり、散り散りになった死者の量子たちはこの世界を彷徨う。ロシア宇宙主義者たちは散り散りになった祖先たちの量子をかき集め復活させるために宇宙技術開発に勤しんだ。

アリストテレスも、ニュートンも、始皇帝も野口英世も、子どもの頃に踏んでしまった蟻も、昨日食べた南瓜も、最後にはみんな1つの場に集合する。一旦別れるけど、時間も消えた世界で、僕らは1つの星になる。

3度目のKaMiNG SINGULARITY。3度目の家族の死。30歳になる今年の自分は明確に転換点に来ている。O(酸素原子)が3つで出来上がるオゾンという会社の行方も、三ツ沢下町に作った逃げBarの行方も、いまだホワイトアウトした場所の中。ぼんやり浮かぶ光を目指している。

どこにつくだろう、なにになるだろう。
さようならに幾つもの意味を込めて、顔をあげたい。

また会おう、過去の自分よ。
大丈夫だ、未来の自分よ。



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「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。