「自由」と暴力

社会的に自分よりも力の劣る者を上から押さえつけ、自分の思うがままに消費の対象にするのは明らかにひとつの暴力の形と言って良いだろう。
いわゆる「表現の自由」戦士という呼称は、彼らの言う「(表現の)自由」が、本来的に憲法で保障されるような、基本的人権としての自由でないがための揶揄である。
彼らがそのために戦っている「自由」とは、まさに冒頭に書いた、社会的弱者/マイノリティーに対する暴力を俺たちに振るわせろ、という「自由」の要求であって、そんな上から下に向かう自由が社会的に認められてはならないことは近代社会においては自明の理なのである。

それに対して、リベラルなのに自由を制限するのか、キャンセルカルチャーを認めるのか、という一見、批判のように見える何かは詭弁でこそあれ、基本的人権や、そこにおける自由がそもそもどういうものか理解できないほどの暗愚なのか、または、わかっていて、わざと自分の気に入らない「リベラル」(これも一方的な思い込みの誤解でしかない、本来そんなものは存在しない藁人形)や、いわゆる左派に嫌がらせをしたい、さらにはその存在を消し去りたいという、やはり暗愚による傲慢な劣情でしかないだろう。
自分たちの持っている権力に無自覚なふりをし(もっとらしく「表現の自由は何人にも認められなければならない」などと表面を繕いながら)、とにかく自分たちの欲望を自由に解放したい、結果的にそれで弱者がどうなろうが知ったことではない、あるいはそもそも弱者なんかいないのだという態度、そして、声をあげた者に対しては「お気持ち問題」などとレッテルを貼っての嘲笑、本当に社会的に優位な立場に胡座をかいた者たちの、醜悪の極みに達した姿でしかない。

こうした様相は本質的には憲法の主旨、立憲主義が下から上の自由を保障するものであって、つまりは権力の横暴に抗い、それを制限するためにあるものだ、ということが根本的に理解されていないがための惨事とも解されるだろう。

従って、自分に与えられた自由について、その適用、すなわち使い方の目的と影響を原則として意識することすらできない人間は、与えられた自由の意味を知るまで、自由を振りかざすことがあってはならない。


(追記)この世に地獄を作り出そうとしている人々

表現の自由が今、最も正確な形で行使されている場所は、入管難民法改悪やLGBTQ+理解増進法、マイナカードの実質義務化、インボイス制度など、政権与党や、それに与しようとする翼賛政党のデタラメなごり押し、人権侵害に抗おうとしている人たちが声をあげている国会だったり、デモの現場だったりするだろう。

だが、「表現の自由」戦士やそれを擁護しようとしたり、またそれに乗じて、もっともらしく、リベラルがキャンセルカルチャーを推進するとは何事だとほざき、権力に媚びる連中が、本当の意味での表現の自由が守られなければならない、そうした事柄について完全に無関心なのは象徴的。

結局、権力に抗うために保障される本来の表現の自由など本当はどうでも良く、公共の福祉が無化され、どれだけ社会が破壊されようとも、自分たちが好きに弱い立場にある他者を食い物にし傷つけ虐げつつ、自らの欲望のみをどこまでも解放し続ける既得権をこそ「表現の自由」の名の下に守りたいと思っていることの現れでしかない。そんなものは断じて表現の自由ではないのに。

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