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好きと嫌いと信じること

昔から、「信じること」が苦手だ。
それは、裏切られることを恐れているからかもしれない。何かを信じる機会が少なかったのかもしれない。とにかく、信じることは今でも苦手だ。

なぜ信じられないか、深く考えることがある。
そうして結局、いつも「私だけのせいだと思いたくない」という結論にたどり着く。だって、信じられないのは昔からだったから。

そのあたりは置いといて。こうして苦手なことを誰かのせいにしようとする程度には出来損ないの人間をこなす私だが、信じることと同程度に苦手なことがもうひとつある。それは、「好き」を主張することである。

なぜ好きを主張することが苦手か。まず、好きの対極に位置する感情、「嫌い」について考えてみる。「嫌い」にはたぶん、根拠がある。例えば、おいしくないから嫌い、気持ち悪いから嫌い、難しいから嫌い。だから堂々と主張できる。しかしその一方で、「好き」は理由を説明しづらい場合がある。よくわかんないけど、なんとなく好き、のように。また、「好き」は理解されない場合がある。例えばある対象について、私は好きだけど、あの子は全く興味ないみたい…のように。こういった場合が往々にしてある。

だから、「好き」を主張するには勇気が要るのだと思う。自信を持って「好き」と思うことすら難しいのだから。理解されないかもしれない「好き」を、あるいは自分も根拠の説明できない「好き」を、どこかの誰かに伝えるのは、おそらく簡単なことではないのである。

話は戻るが、「信じること」にもこれと似たような側面があるのではないかと考えている。つまり、「信じること」にも勇気が要るのだ。誰かの些細な発言を、言語化された感情を、不確定な現実を、自信を持って信じることは難しい。だって、全部根拠がないから。

根拠がなくても好きでいること。根拠がなくても信じられること。どうやら私はこういう能力を身につけなければならないらしい。そのためにはまず、自分の「好き」「信じたい」という気持ちに素直になって、自分の気持ちに自信を持つことから始めるべきなのかもしれない。さらには、まず自分が自分を信じること、自分の価値観を自分が信じること、こういったことがその基礎になってくるのかもしれない。だとすれば、私が「好きの主張」と「信じること」が苦手なのは、私自身が自分の価値観や考え方に自信がないことが最大の原因なのでは?

……あはは、長年の疑問解決〜!(え?)
解決したので文章はこれでおしまい!(まじ?)
お読みくださりありがとうございました😊

最後に、数年前のものだと思われる、夜中に書いた詩のような何かを発掘したのでそちらを掲載しておきます。意味はよく分かりません。


信じられないものを信じたいと願いながら、それでも確実には信じられないことを理解して、束の間の幸せを噛み締めながら、保証された絶望へと歩いている。
望遠鏡を覗くと、向こうには輝く世界が見える。きっとそんな状態を何度も経験する。けれどその度に存在感を増す絶望に辟易して、自ら絶望に飛び込んでいくのだろう。

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