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美しさは綺麗と消失の狭間で

美しいものって、美しいですよね。()
そこで今日は、自分にとっての美しさとは何なのか、考えてみることにしました。もう早速「美」の文字がゲシュタルト崩壊しているところですが、まあのんびりといきましょう。

「美しさ」って何なのでしょうね。うん、全然分かりません。そもそも、私は日常生活において「美しい」と感じることはほとんどありません。いや、ないんかい。

ただ、「綺麗」と感じることはあります。これはある。最もよく感じるのは、夕暮れの空を見たときです。一度、アルバイトか何かの帰りに、空が、まるで絵の具で塗られたかのように綺麗に染まっていたことがありました。これが夕焼けとはまた違ったのが印象的で。水色の空にところどころ薄紫が差していて、太陽に近い方の空はオレンジ色で、太陽から遠い方の空は暗くなりかけていて、雲がその間を埋めていて……。

言語化するのは野暮かもしれない。単に色が多かったというだけではなく、その淡い色彩の調和が素晴らしかったんです。これには思わず、綺麗だなぁ、と独り言ちてしまいました。ここには載せられませんが、写真も撮りました(電線や建物などが多く写っていてあまり良い写真ではないので載せられません)。この空のことは、晴れた日の夕方になると、自然と思い出されます。

では「綺麗」と「美しい」の違いって何なのだろう?と考えたときに、ひとつ思い当たる節がありました。夕暮れの空に関して、もうひとつの印象的な思い出を記しておきます。

先程とは別の日です。学校で少し嫌なことがあった日だったと記憶しています。帰り道、いつものように急な坂を登り切ると、やけに空が綺麗だなと思って、暫く立ち止まったのです。太陽が地平線に沈んで暫くして、まだほんのりと色を残す西の空と、もう濃紺に染まり始めている東の空と、その間をどこまでも均等に塗り上げている頭上の空。

あまりにも綺麗なので、私はそれを写真に収めようと思いました。何枚か撮りました。しかし、どれもいまいち。ここで初めて私は、本当は現実を写真で残すことなどできないのだと気が付きました。なぜいまいちだったか、理由は様々あると思います。広い空を小さな画面に収めることに無理があったのか、携帯が自然の色を出せなかったのか。私の気分が、その見え方に影響していたのか。

ただ、先程の薄紫の空のときと異なる点がひとつありました。それは、空が常に変化している点でした。空が、刻一刻と夜に呑まれていくのです。私はその様子に、しばし見入っていました。どうしようもなく明るさを失っていく空に、暗さに負けていく空に、何もできない自分は言葉を飲みました。"今ここで"しか見ることのできないそれを、「美しい」と思いました。それから私は、空を見上げるのがたまらなく好きになりました。

ここまで書いて結局、私は「失われうるもの」に価値を感じ、それを美しいと感じているのかな、なんて思っています。移りゆく時間の中で、いつかは失われてしまう儚いものが、美しい。空もそうだし、いつか散る花も、溶けてしまう雪も。もっと言えば、あなたのその笑顔も、命さえも。はたまた人間という存在も。

……そういや似たようなこと兼好も言ってたな。桜は散り際が美しいとかなんとか……(知り合いみたいに言うなよ、のツッコミを待ちながら)。昔から我々の「あはれ」の心は変わらないのだなあということでひとつ。

でも最後にちょっとだけいいですか?
「桜は散り際が美しい」って、まあ分かるんだけど。もうほとんど花びらの残っていない桜の木から落ちる花びらは、確かに美しく儚く切ないと思うんだけど。おい兼好、そのまま地べた見てみ?落ちて踏まれて茶色くなった花びらばっかりよ。総合的に考えたらどう考えても満開の方が美しいでしょ。……って言いたい。えへ。


またよく分からない文章を書いてしまった😇

ここまでお読みくださってありがとうございます!またお会いしましょう〜👋

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