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僕の歴史

皆さんこんにちは、㈱impの石川です。
本日は、僕が歩んできた26年間の歴史を簡単にご紹介できればと思います。


小学生時代

小学校1年生から中学1年生まで、親の転勤でシンガポールに住んでいました。
小学1年生のときに親から「シンガポールに住むことになった」と言われて、「シンガポールって何?何の名前?」となり、正直意味がわかりませんでした。

シンガポールでは日本人学校(チャンギ小学校)に通いました。
インターナショナルスクールではありませんでしたが、週4〜5回の英会話の授業があり、そのおかげで日常生活に支障のないレベルまで英語力が上達しました。

勉強面では、高学年になるにつれて周りの生徒の学力が半端ないくらい上がっていきました。
みんなに負けないように必死でした。ほとんどの子たちは「駿台」や「早稲田アカデミー」など、日本で有名な学習塾に通っており、小学校での勉強は秒速で終わらせていました。
※当時の小学生の同級生は、皆国立大学や早慶、MARCHの大学へ進学しました。

シンガポールに住んでいた時期にソフトボールと野球を始め、地元の野球大会などでいつも表彰される選手になりました。

中学生時代

中学2年生の春に日本(群馬県)に帰ってきました。
本当は中学の終わりまでシンガポールにいる予定でしたが、中学2年生には日本に帰らないと野球の推薦で強豪校に行けないことがわかり、親にわがままを言って日本に帰らせてもらいました。
中学2年生のときは軟式野球部に所属しました。
硬式野球(ボーイズ)と悩みましたが、毎日全体練習があるという理由で軟式野球を選びました。

軟式野球部に入部して2ヶ月くらいは周りの部員から嫌われていました。
中学2年生でいきなり転向してきて日本の文化にも慣れていなかったので、みんなの癇に障る行動をしていたのだと思います。
※今ではその時一番嫌っていた人は僕の親友です(笑)。

中学2年生のときは野球の推薦を取るために必死で練習しました。
親にわがまま言って帰らせてもらったので、ちゃんと結果を残さないといけないと思ったからです。
そのおかげで、中学2年生と3年生のときに結果を出すことができ、群馬県内のいろいろな強豪校から推薦をいただきました。
当時の顧問の先生から具体的な数は教えてもらえませんでしたが、主要な県内の強豪校からはほぼ来ていたので10校以上だったと思います。

その中で前橋育英と高崎高校の2択に絞りました。
どちらも魅力があって憧れの高校でしたが、最終的には前橋育英を選びました。

高校時代

高3の夏
高3の夏

前橋育英に入学し、強豪校の野球部に入部しました。
1つ上の先輩には現在プロで活躍する西武ライオンズの高橋光成さん、1つ下にはロッテの小川龍成、2つ下にはヤクルトの丸山和郁がいました。

高校1年生のとき、僕の誕生日に夏の甲子園で優勝しました。
※その時はスタンドでした。

高校1年の秋からベンチ入りし、高校2年の秋からレギュラーとして試合に出ることができました。
当時の練習は、量より質が圧倒的に濃いイメージが強かったです。
毎日の練習はしんどかったですが、少しずつ上達している実感があって楽しかった思い出があります。

高校最後の夏は県大会優勝候補でしたが、まさかの県大会1回戦敗退という結果に終わりました。
今もう一度過去に戻れるならこのときに戻りたいとつくづく思っています。

大学時代

横浜スタジアムでの関東大会
横浜スタジアムでの関東大会
現西武ライオンズの佐藤隼輔投手との対戦

大学でも硬式野球部に入部しました。
大学4年のときにレギュラーとして試合に出ることができましたが、高校のときのように試合で結果を出せず、悔しい思い出がたくさん残っています。このときは社会人野球に行きたくて必死に練習していましたが、結果が出なかったため、進むことはできませんでした。

良い思い出としては、当時プロ注目のピッチャーから148キロのストレートをホームランにしたことと、現在プロで活躍する西武ライオンズの佐藤隼輔投手から公式戦で通算5割打てたことです。

社会人

新卒で上場企業の製造メーカー(計測機器)の営業マンとして就職しました。
社会人で働くことを甘く考えていたせいか、慣れるまでに正直すごくきつかったです。
働いてお金を稼ぐことや、組織で働くことの難しさ、上司の期待に応えられず怒られる日々が続き、悔しい思いでいっぱいでした。

何とか仕事を人並みにできるように必死で食らいついて、社会人2年目の後半頃からようやく仕事に慣れてきました。

社会人2年目の頃に何か没頭できるものを見つけたいと思い、いろいろなことにチャレンジしました。
(英会話の勉強やファイナンシャルプランナーの勉強など)
そのとき、たまたまヒッチハイクに関するSNSが回ってきて、面白そうと思い、即断即決でヒッチハイクに出かけました。
ヒッチハイクは二泊三日で栃木から北海道の函館まで行きました。

ヒッチハイクで一生に一度しか残せない思い出を作ろうと動画を撮っていましたが、スマホのスペックのせいか、あまりにも画質が悪いことにショックを受け、「もっときれいな映像を撮りたい!」と切実に思いました。
これが僕が映像制作にのめり込んだきっかけです。

ヒッチハイクで青森の大間まで行ったときの写真
ヒッチハイクで青森の大間まで行ったときの写真

同じ時期に今一緒に仕事をしている植松から、ほこりをかぶったドローンがあるという話を聞き、一緒に飛ばしに行きました。
当時はドローンという単語すら知りませんでした。
後日ドローンを飛ばしに行き、直感で「これは仕事になる!」と思い、その場で数十万円する新品ドローンを購入しました。

まずは、ドローン空撮と映像制作を無料でやらせてもらうところから始めました。
徐々に仕事として少しずつ依頼をもらえるようになり、会社との両立が難しいと感じたこと、そしてドローン空撮と映像制作を一本で仕事にしたいという思いから、2年半で当時の会社を退職しました。

ドローン映像制作会社設立から現在まで

石川と植松

2022年6月10日に株式会社impを植松と僕の父とで創業しました。
※植松はシンガポールの小学生時代の親友です。

impの意味は「important 大切」「impression 感動」「improvement 改善」という意味が込められています。
僕たちが作った映像で、これらをお客様に提供したいという願いが詰まっています。

最初の頃は結婚式のオープニングムービー制作や当日エンドロール撮影などの仕事が多かったですが、現在は企業向けのブランディング動画制作(採用動画やイベント動画など)をメインとして行っています。
僕たちの特徴であるドローンを活用した映像制作で喜んでもらえる企業様が少しずつ増えてきたのを実感でき、嬉しく思う日々が続いています。

これからもお客様を満足させる、利益につながる映像制作、ドローン空撮でたくさんの方の笑顔や感動を作れるように頑張っていきます。

ドローンを活用した企業ブランディング動画制作に興味を持っていただける方がいましたら、下記までご連絡いただけると嬉しいです。 contact@impre.jp

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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