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拡張されていくわたしたち


皆さんはSNSをどれくらいの頻度で使っていますか?

通知が来た時だけ?少しでも時間が空いたら?気付いたら無意識の内に?

はたしてそれは、SNSを使っているのかあるいはSNSに使われているのか、どちらなのでしょうか。

ひっくり返るこちらとそちら

僕は「インスタグラム」を文字数制限ギリギリまで使用して投稿したりしていますが、いくつかの投稿を経てあることに気付きました。それは「そのSNS」の求める形に無意識に自分が縛られている、ということです。

ほとんど無意識のレベルで「インスタグラム」なら「インスタグラム」らしい写真の撮り方、文章の書き方、さらには思考経路に沿おうとしている自分がいる。言うなれば主客の転倒が起きている。

投稿する前に自分が読む側でかつ見る側の視点に立っている。本来なら自分が考えたこと、感じたことを自由に自分の言葉で表明する(表現する、という言葉は少し恥ずかしい)ことが目的だったはずなのに、「インスタグラム」という枠の中になんとか順応することに必死で、伝えたいことが伝えられていない。

息継ぎができない

例えるなら、短距離走で息継ぎなしに走り抜けているような感覚です。

投稿している内容があまり脇道に寄らないように気を配り、文章そのものを読んでもらうというよりも文字を一つの絵、写真として見てもらうためにはどうしたらいいか、と考えるようになっていました。それもほとんど無意識の中で。

書き手のこちら側がゆっくり深呼吸をして一休みしてしまうと、向こう側にいる読み手の集中力も同じように切れてしまうのではないか。そして「インスタグラム」において、集中力が一度途切れてしまうともう続きは読んではくれない。

そうであるならば、語りかけるように共感を得られるように飽きられないように書こう、と内容自体が自分自身も意図しない方向へと流れていっていたようです。

SNSに漂う空気

僕が気付いたそうした無意識の順応は、「空気を読む」という行為に近いのではないでしょうか。

自分が属している集団の空気を読むのと同じようにSNSに漂う目には見えない空気を感じとる。そして、気付いた時にはその空気を壊さないように振る舞っている自分がいる。いや、気付いていない人も多いはず。

「SNS疲れ」という言葉を耳にしたことがあるかもしれませんが、その疲れの原因はSNSに漂う空気を読むのにエネルギーを奪われているからなのではないでしょうか。

インスタグラムの魔力

「インスタグラム」をもう少し掘り下げてみます。どういったコンセプトで作成されたものなのかというと、おそらく瞬間的に投稿を見て衝動的にいいね!を押すように「設計」されているSNSです。

ゆっくり腰を据えて投稿を眺め、深く思考するように制度設計されているSNSではない。どちらかと言えば、1人のフォロワー、一つの記事に長く時間を割かないように設計されている。

そして、「何を」投稿しているかよりも「誰が」投稿しているかの方がより重要度が高い。内容そのものよりも「あの人」が投稿したことそのものに意味がある。知識や情報を得るためのツールではなくて、コミニュケーションを高速でし合うためのツール。

広範囲の情報を視覚的に認識し、フォローして相互に共有し合う。

見て、知って、推して、広めて、繋げる、SNS。

それが「インスタグラム」

そう考えていくと、長文を書く行為をほとんどの人がしていないのも納得です。なぜなら文章が長ければ長いほど、一目見て「いいね」かどうかは判別できないから。

それならば、注目を浴びる写真や、インパクトのある動画や、余韻と含みをもたせたキャッチコピーのような短い言葉の羅列、を駆使した方が「インスタグラム」にとっては最適なはずです。

「インスタグラム」に触れていればいるほど、自分の思考が加速度的に早く短く広くなっていく。それはほとんど避けがたいような気がします。

最大限に最適解

こう書いていると「インスタグラム」を批判したいように感じるかもしれませんが、そんなことはまったくありません。むしろ僕は、惚れ惚れするほどの感動さえ覚えています。すごいものです、「インスタグラム」は。なぜなら、人間の能力を広げてくれているから。

「インスタグラム」のような構造の設計は、人間の興味の移り変わりの速度を爆発的に増進させ、時間当たりに知覚できる範囲を拡張させくれている。「インスタグラム」を使用していなければ、あれほど大量の情報を浴びる機会はそれほど多くはないでしょう。

そう考えていくと。僕たち人間が「インスタグラム」を使いこなしているというより、「インスタグラム」の構造に合うように人間の方が最適化している、という構図が見えてきます。適応していると言ってもいいかもしれません。

そしてこの人間がする適応という行為は、他のSNS、アプリケーション、インターネットサービス、ひいては物理的な道具、住んでいる街、働いている職場にいたるまでありとあらゆる場所、スケールで起こっている様態です。

意識してもいなくてもどんな瞬間においても、最適解を見つけようと適応している。これは人間に限られた能力ではなくて、生物としての本能のようなものではないでしょうか。

そして、適応は無意識だからこそ良い影響も悪い影響も、余すところなく同時に受けてしまう。自分が受けている影響を正確に把握することはなかなか難しいものです。

僕が「note」を始めた理由

話は少し変わりますが、僕が「note」に文章を投稿しようと思ったのは、「インスタグラム」以外での思考形式と思考速度を維持しても大丈夫な場所を確保しておきたくなったからです。長距離走の選手のようにゆっくり長く考えたくなったから。

ということなんでしょうね。

なんでしょうね、と書くのは自分が書く動機を理解してきたのは書いている「この最中」だから。書きながら、思考がゆっくり深まってきたから「この結論」にたどり着いた。

書く前の段階で自分が自分について理解していたことは、言葉にして共有できる別の場所が欲しいなぁ、ということだけでした。

おそらく、インスタグラムやツイッターなどの他のSNSに投稿しようとしていたら、今書きつつあるこの思考とは同じ経路を歩んでいないでしょう。

取り戻したいものは・・・

ここまで書いみて、やっぱり場の力というのはすごいものだなぁ、と感じてきています。書く場所、共有する場所が変わっただけで結論やその結論に至るまでの過程に大きな変化をもたらしてくれる。楽しいですね。

繰り返しますが、「インスタグラム」を含めたそれ以外のSNSを批判をしたい訳ではまったくありません。

むしろ「インスタグラム」に投稿することによって鍛えられた部分はとても多いですし、何より「インスタグラム」の「設計」を皮膚感覚で感じ取った自分が何をどのような文体でどのように言葉という乗り物に乗せていくか、ということに僕自身興味があります。

なのでこれからも「インスタグラム」に投稿は続けていくつもりです。noteに投稿する内容とは、文章の「リズム」と、思考の「深さ」と、選ぶ「語彙」には差が出てくるはずですけれど。

そのように媒体ごとに差が生まれてしまう自分は、少し不確かな存在でもあります。SNSごとに見たことのない自分が表出してくる。一面だけのアイデンティティではない。

しかし、意識や知覚が拡張していく自分も含めて自分だ、と受け入れられればそれはそれでずいぶんと楽しいのではないか。SNSに縛られているのではなくて、自分の方がSNSを土台にして思考を豊かにしていく。

無自覚の内に振り回され合わせるように順応していた自分(客体)を、自らの価値観で能動的に行動する自分(主体)へと、再転倒させる。


SNSに奪われた主体性の奪還。


というのは、ちょっとカッコ良く言い過ぎでしょうね。


#日記 #エッセイ #SNS #インスタグラム #言葉

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