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「社不」に名前がついた日 〜大人の発達障害・診断とその後〜



「生きづらい」=「発達障害」なのか?


現代社会はストレス社会、などと謳われはじめてからも
随分と季節がめぐったような気がする今日この頃です。

常日頃より生きづらさと共に暮らす方が散見され
また、そのような悩みを抱える方向けか、ネット上でできる
発達障害の簡易診断」も多く見かけるようになった気がします。

その一方で、
「簡易診断で発達障害の疑いがあり、病院で検査したが該当しなかった」
という声も目にします。

では、「生きづらさ」と「発達障害」の境界線
もとい「病院に行くか行かないかのライン」は
一体どこで判断するべきなのでしょうか。

こちらのnoteに記載してある内容は
非・医療従事者の筆者(診断済ASD・ADHDもちょっと)の経験談にすぎません。
正しい判断は、必ずお医者様に委ねてください。


1.ちっちゃな頃から「社不ガキ」で〜


私自身も、大人になってから
発達障害の診断を受けた身なのですが
ちっちゃな頃から立派な「社不」でした。

(※社不=社会不適合者、の略であり、ネットスラング。今回は自虐的に使用)

社不エピソードには事欠かない人生を送って参りましたが
全てのエピソード、および
全てのライフステージに於いて共通して言えることは

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人が当たり前に行う/できる/わかる、ことが出来ない/分からない
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

という点です。

そのようなエピソードが“幼少時から“存在する、というのが
“病院に行くか行かないかの判断“をする
1つのポイントかと、考えております。

このnoteにて、あまり「隙有自語」をするつもりはないのですが
判断基準の例として、筆者のエピソードを1つ挙げさせていただきます。

幼稚園に通っていた頃
外は大雨であったが、お気に入りの外遊び遊具で遊んでいた。

→他の子は言われずとも屋内で大人しくしていたが、
 なぜ雨の日は屋内にいないといけないのかが分からなかった
 子供なりに、濡れても自己責任だろうという気持ちがあった。

→お気に入りの遊具で遊びたいというこだわりが強かった。

→怒られても、なぜ怒られているのか全く理解できなかった。

なかなか、幼少時より「発達くさい」でしょう。
このようなエピソードは枚挙にいとまがありませんので
一番わかりやすく纏っているものを選ばせていただきました。



2.15で神童と呼ばれたよ〜


発達障害を持つ人は、何か「突出した才能」を
併せ持っていることが多いようですが
(※調べたところ、全てではないようです)

“それで飯食っていける“程に突出しているのか
どの程度“突出しているのか、及び
その才能が、職に繋がるのか“は

残念ながら、全くの別問題となってきます。

近年は発達障害を公にしている有名人の方も多く
それ自体は、社会から周知されるきっかけとなり
当事者としても誠にありがたい話なのですが

「ASD?あ、あの有名人と同じやつね!」と言われることは
一般の方の視点で例えるのであれば
「あのノーベル賞の人と同じ人間ね!」という感覚です。





筆者自身の「突出した才能」は、恐らくなのですが
文字を読むことが一般の方の5倍くらい(※当社比)速いことではないか、
と推測しています。(つまり推測しないと分からない程、微々たる才能です)

“参考書やテストの問題文を読んで、理解するスピードが速かった“
ただその一点に助けられ、学生時代の成績はそこそこに良かったため
大人からはそれなりに良い扱いを受けていたことと記憶しています。

一方で、同級生同士の関係性は最悪でした。
「ごめんね!」「いいよ!」「握手で仲直り!」では済まない、
複雑化する人間関係に全く対応できませんでした。

・何かしらの突出した才能で、学生時代に大いに褒められた経験がある
・反面、人間関係の構築は全くと言っていいほど出来なかった

なども、特徴として“あるある“かなと存じますので
病院に行くか否か検討していらっしゃる方の
線引き・指標の1つになれば幸いです。


3.わかってくれとは言わないが〜


斯くの如くして

・周囲と馴染めない
・他の人が「少し考えればわかる」ことが全くわからない
・その癖、他の人が考えてもわからないことだけはわかる

など「周囲とのズレ」に悩まされた結果
筆者をはじめ、多くの発達障害・当事者たちは
擬態」と呼ばれる対策をとっております。

「擬態」とは…
「他のものに様子や姿を似せること」

https://kotobank.jp/word/擬態-50808

当事者の擬態は、
「世間の多数派に併せて自らの言動を似せること。そのように振る舞うこと」
という意味合いになるかと思います。

とはいえ、基本的に“何が多数派と違っているのか“は
失敗を通じてでないと学べないため
考えてもわからないので)

失敗ありき、を前提としている対策とも言えます。

しかしながら、恐らくではございますが
定型発達者(という呼び方も宜しくありませんが)の皆様も思うことでしょう。
「自分だって、社会に出るにあたり、擬態している」と。

ありのままを受け入れてくれる社会など
発達障害者・定型発達者含めて、ありはしないでしょう。
ストレス社会、と呼ばれているのですから尚のこと、です。



筆者は、自分では割とよく擬態できていると自負している方です。
それでも、どうしても超えられない壁があるのです。
どんなに考えても、一般的な振る舞い方が分からないラインが存在します。

これを、筆者の脳内では
勝手に「ASDの壁」と呼称しています。
(元ネタは言わずと知れた養老孟司先生のベストセラーです)

どこに行っても、どこまで行っても
この“ASDの壁“はついて回りますから
日々「どの振る舞いが間違っていたのか」という自省が発生するのですが

前述の通り、この自省は「考えても分からない」ことにも関わらず
延々と考え、ようやく推測し、また擬態するものの失敗し
考えても分からない原因を考えるという、無限ループを繰り返しています。

これが、恐らく社会に対する擬態への
定型発達者との大きな違いであり
発達障害者の生きづらさにある根本ではないかと推察しています。

上記についての心当たりもまた
受診する/しない、の判断基準の1つになるかもわかりません。
ご参考頂けたら幸いです。


実家の猫が小さかった頃の写真


大人の発達障害・診断までとその後


さて、病院だの診断だのと申し上げておりますが
当然、そこには医療費のほか
時間や手間も同時に必要となって参ります。

正直、検査・診断までの一連の流れは
かなりエネルギーが必要となる(金銭・体力・精神力全て)
と申し上げて差し支えないかと存じます。

それでも尚、かつての筆者のように
この生きづらさに名前をつけて、可能なら救ってほしい、と
藁にもすがる思いの方は沢山いらっしゃると推察します。

ただでさえ生きていくだけでもしんどい中で
かなりのエネルギーを使って病院に行くメリットは何があるのか、
生きていくため避けては通れない就労面も含めて体験談を記載します。




1.病院はきちんと下調べをして選んだ方が良い


発達障害、なんてひと昔前では余り耳にしなかった言葉ですし
筆者の子供の頃といえば、精神病院の窓に檻があった時代です。
(年がバレてしまいますよ。)

ネットで少し調べると「大人の発達障害も診断します」というような
記載のある病院は、ちらほらと目にするのですが
安易に選ぶと、金銭的に損をする上に辛い気持ちになるかもしれません。

筆者がまさにその失敗を致しまして、
仕事のストレスで遠方まで行くエネルギーもなかったために
最寄でいいや、と軽い気持ちで病院を選んだところ

「みんな違ってみんないい」という道徳的なお話からの
「会社をクビになってないから発達障害ではない」
「本物の発達障害者は一見しただけで変だから、あなたは違う」

など散々な言われようをした上に
キッチリと診察のお金は取られてしまう訳なので
お財布にも心にも、ダメージを負うだけとなってしまいます。無駄。


その経験を踏まえて選んだ、今お世話になっている病院は
幸いにも手厚く寄り添って下さるのですが
かなり遠方まで通っています。(月1回程度)

診断科目の“その他“のような部分に発達障害の記載がある病院ではなく
メインで発達障害を診察します・専門です、という記載がある病院の門戸を
(多少手間がかかるとて)叩くことを、個人的にはオススメします。



2.診断が下ることでのメリット


まず、真っ先にお伝えしたいメリットは
「今までお疲れ様、よく頑張ったね」と言われているかのような
自分を包んでくれるような、肯定感が与えられる点です。

“真っ先に言うメリットが、金銭的なことや社会的立場じゃないの?!“
と思われるのであれば、受診は余りおすすめできません。
それなりに時間もお金もかかりますからね。

“自分が悪いのだろうけれど、なぜ悪いのかが分からない“
という漠然としていつつも、確実な自己否定感
24時間365日晒されている身としては、十二分のメリットと存じます。

診断を受け、お医者様からの意見書を書いていただけるようになれば
例えば職場(人事)などに相談の上、合理的配慮をいただいたり
それ前提での就労を考えることもできるようになります。

診断から半年程経てば、障害者手帳の申請も可能になりますので
申請の上手帳が交付されれば、目に見えるメリットも享受できます。
が、医師の意見書も障害者手帳の申請書もバッチリ有料です。

以前、公共交通機関の割引について
精神障害者保健福祉手帳の交付者にも対象が広がるというニュースの際
「精神障害なんて“フリ“をすれば受給できる」という意見もありましたが

道徳的観念のふんわりとした話ではなく、
“フリ“をして受診し、看過されずに諸々の手続きが進み
仮に交付を受けたとて、そこまでの費用の方がメリットより高額です。無駄。



3.「オープン就労」と「クローズ就労」について


オープン就労」→職場に障害を伝えた上での就労
クローズ就労」→職場に障害について黙って・内緒での就労
という意味合いで使われている言葉ですが

障害について、逐一職場に申し出る義務は一切ないので
クローズ就労は“悪事ではない“ということを先にお伝えします。

その上で、私は今までクローズ就労しかしたことがありませんが
個人的には、クローズ就労は全くもっておすすめしません。

筆者自身、擬態はよくできている方と自負している点については
前述いたしました通りなのですが、

何より過去の自分が
「オープンは甘え」
「定型発達者に紛れた、過酷な環境下でこそ擬態が磨き上げられる」
と考えていた故であります。

おすすめしない理由としては
自分が辛いから、という利己的な理由からでは全くなく
一緒に働く定型発達者に迷惑をかけることになるから」です。

どんなに頑張って擬態しても、
“ASDの壁“がある以上、完璧に擬態することはできません
そしてその穴に対して、同僚たちが不審に感じる瞬間が生まれます。

「不審」は「不信」に繋がります。
どんなに自分の任された業務を完璧にこなしていても、です。

人…というより、生き物全てかもしれませんが
「得体のしれない分からなさ=恐怖、近寄らない方がいい」
と判断しがちなものです。

少なくとも筆者は、自分の障害をクローズにすることにより
同僚たちに“得体のしれない分からなさ“を無意識に与えてしまっている、
と考えました。

発達障害者も、定型発達者も、すべての人が
ストレスを極力少なく、生活できることが一番
です。
筆者の勝手な向上心で、他人に迷惑をかけるのは自己中心的に他なりません。

以上の理由で、クローズ就労は二度としたくありませんし、しません。
ご迷惑をおかけした方々にはこの場を借りてお詫び申し上げます。
(誰も読んでいないのは承知の上です)


他にも何か思いついたら別記事にて…


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