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土砂日記 二 駅伝に魅せられて、雨

とある事情により、きょうは日記の結論から記さなければならない。

結論というのはこうだ。
本日14時半にぼくは自宅を飛び出し、およそ40キロ北へ走った。
「走った」手段に原付や自動車や自転車は含まれない。自らの足だけだ。
5時間後に仙台市に到着、カフェで一服したあと直ちに電車で帰途に就いた。
最寄駅から自宅まで30分かけて歩き、独り夕食を摂り入浴、現在に至る。

こうした一連の行程に伴い、ぼくは現在、死ぬほど眠い
I.M.O.の記事に「死ぬほど」という副詞が登場するのはよほどの事態である。
ハレー彗星のごとく希少だから存分に目に焼きつけておいていただこう。

さて、冒頭にことわった「とある事情」とはまさにこの眠気に由来する。
睡魔に瞼を牛耳られつつある現在、悠長に文章を書いていては尻切れになる公算が大きい。だから応急処置として要旨だけを早々と書きおおせた。
あとはどこまで鱈"鱈"と続けたものか、一世一代の芸当をとくと照覧あれ。

不思議なもので、甚だ眠くとも即座にキーボードを打つ手が止まるわけではない。
「完璧な睡魔などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」
村上春樹の即席パロディができるうちは、しばらく安泰とみてよい。

この40キロの旅は、まえにいちど敢行したことがある。
今年の夏だったろうか、『ハングオーバー!』シリーズ2作目を観ていたら卒然と「バカなことしたいなぁ」と想いはじめ、ひととおり再生が終了するやいなや外へ飛び出した。13時に自宅を出発、適宜休憩を挟みながら20時に仙台に着いた。
当時のあれこれは、もはや一歩も足を踏み出せないほどに四肢を酷使した苦悶と、40キロの道のりを踏破できた歓びをまといながら、思い出として胸に刻まれた。

幾星霜を経て12月のきょうを迎えた。
正午まえに起き出してテレヴィジョンを点けたら、全国高校駅伝大会の様子が白熱の口調で報じられていた。色とりどりのシューズに足を包んで立ち上がった高校生たちの、上気するのでも超然とするのでもない颯爽たる面持ちに、ぼくの目はクギヅケになった。
ウォームアップもそこそこに彼らはトラックを走り出した。その速いこと!
筋肉に膨大なエネルギーを要する長大なストライドをコンスタントに繰り出し、京の都をずんずんと驀進する選手の威容を見て、ぼくの太ももはたちまち凝結した。

「は、走りてぇ」

刻々と移りかわる駅伝の情況を捉えるのもそこそこに、ぼくは支度を始めた。
リュックに爽健美茶とウィダーインゼリー、ユニクロの手袋、ヴェルサイユ宮殿で買ったニット帽、財布、タブレット、ワイヤレスイヤホン、そして太宰治『女生徒』(角川文庫)を詰め、ちょっと逡巡したのちカシミヤの薄手のセーターにアンダーアーマーのジャージを着込む。
お気に入りのナイキズームフライ3を履き、14時半に出立。

12月にしては暖かな陽光に照らされ、「カシミヤ要らんかったかな」と考える。
ウォームアップがてら、のびのび歩きながら40キロの道行きを踏み出した。

安穏としていられるのはここまでである。

30分ほど歩いてウォーキングからランニングに切り替えた。
昼食を摂ってからあまり時間が経過していないのでもう少し走るのは後回しにするべきだっただろうが、太陽が雲に隠れて途端に冷え込んできたから堪らず走ることに決めた。手袋を着ける。指先にちいさく穴が開いていてあまり暖かくない。

たんに冷え込むだけならまだしも、降ってきた。
手で払い落とせる雪ならまだしも、雨が繁く降ってきた。
空には晴れ間があったり厚い雲があったり。それで雨は降ったり止んだり。
止んでいるときに走れば暑くも寒くもないのだが、降られると猛烈に冷える。
天気予報をいっさい確認してこなかった愚を悔やむ。
セーターを着込んでいるとはいえ総じて薄着のぼくの痩躯に雨が突き刺さった。

5キロ地点で、いよいよ雨脚が耐えがたく強まり、路端の木陰に逃げ込んだ。
田舎を縦走する国道はとかく雨宿りしにくいとしみじみ痛感。
ワイヤレスイヤホンをつけ、ヴェルサイユのニット帽を被る。
耳と手が暖かければ体感温度が上がると中野ジェームズ修一『ランニングの作法』で読んだとおり、雨天とはいえいくらか寒さが落ち着いたようにおもう。

『星野源のおんがくこうろん』が昨日扱っていたPLASTICSのアルバムを聴いた。
リズムマシンの名機808の繰り出すリズムに身体を這わせ、走る、走る。

20キロ走ったあたりで、だんだんとうまく走れなくなった。
はじめ股関節に覚えた違和感を解消できないまま、そこを庇うように無意識に姿勢が崩れたのだろう、痛みは太もも、ふくらはぎ、膝、足裏へと飛び火していった。
しかも、前回の道行きより早く仙台に着きたいという思惑があって、少しも休憩を挟まなかったのがアダとなった。疲れはぷよぷよのごとく鬱積するのである。

Kassianの名盤をあれこれ聴きながら、騙し騙し走ってはみたのだが、25キロ地点付近で完全にランニング機能を喪失した。「メトロイド」の戦士サムスのように、失われた能力を回収し取り戻せたらいいのだけれど。ああ、ひたすら寒す。

このあたりで、面白い張り紙を見つけた。
「右へお進すすみください」と毛筆で大書してあったのだ。
居場所があるやら、ないやら、ルビに追われる「進」に奇妙な哀歓をおぼえた。

こういう心の機微も、30キロあたりから失われていくことになる。
かくて我、一歩、一歩と痛む足を半ば引き摺りながら踏み出す機械となれり。

幸い雨脚は落ち着いたが、かわりに寒風が吹きすさぶ。
仙台の冷風は殺人的として知られる。北海道で鍛えた人間も音を上げるほど。
アンダーアーマーもアンダーマッスルもハンマーカンマーも容赦無く貫く。
眼球がうまく動かなくなり、車のヘッドライトと乾燥した空気で熱く潤んだ。
頬の筋肉が次第にしなやかさを失い、オハコの「外郎売の台詞」さえ云えない。

PLASTICS、Kassianに続いてゆらゆら帝国の名曲リミックス集を聴いていたが、もはや少しもハミングできなかった。「俺は空洞」が「おえぁくうおぉ」に。

機械としての俊敏さも、人間らしい感情の起伏も失い、ぼくは動く肉塊となった。
渦巻く後悔の念を必死のハミングで打ち消しながらひたすら動く、動く。

仙台の寒風のまえには紙切れにも等しい手袋とニット帽を剥がし、長町のカフェに滑り込んだ。空調が暖かいのかどうかもわからないが、緊縮した気持はほどけた。「注文の多い料理店」から彷徨い出た紳士諸君もかくや。
クリスマスらしい混声合唱が店内に交響している。諸事考え合わせて切なくなる。

ホットケーキを食べ、退散。
どういうわけかメルヘンな画質でしか撮れなかった。切なくなった。

電車で『女生徒』を読む。
表題作のほかにも珠玉が山盛り。口語を文語に定着させる太宰の力量、圧巻。
暖かい車内でふたたびニット帽を外し、ふと頭に手をやる。
短く刈り込んだ髪が重力とニット帽の加圧に負け、剛田武のようにぺったり。
慌てて両手で持ち上げてみるがぜんぜん奮い立たない。

電車を降り、家まで歩いた。
いくらか座ったからちょっと走れるだろうかと確認したのがいけなかった。
太ももにトドメを刺してしまった。重油に踏み入るように一歩が重い。
満天の星空を潤んだ目で見上げながら、自分はまた走りたいと思えるんだろうかと問うてみた。「ランニングは腹8分目でやめよう」と中野ジェームズ修一が説いていたのを無視した結果、どえらい痛みを背負った。ソレミタコトカ。

ほうほうの体で辿り着いた食卓に並んだほかほかの韓国料理(ビビンパ、チヂミ、コムタン)が満身の創痍に染み渡った。この感動のために走ったことにする。

風呂を浴び、現在に至る。
カラダを壊さず、かつ敏捷に走る駅伝選手の偉大さを今一度知った。
さあ、土砂日記をなんとか書き上げた歓びを抱えて、眠ろうではないか。


お休やすみなさい。





I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)