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「芋仁」という名前

私はほとんどのSNSで「芋仁」という名前を用いています。

「いもじん」と読みます。
「imagine(想像する)」をもじって
「imogine」と綴ります。

幼い頃から想像することが好きでした。両親が共働きで、鍵っ子でお留守番の子ども時代を過ごしました。1人で絵を描いたり本を読んでいても、人形と遊んでいても、木登りしたり空を眺めていても。私の傍には空想という遊び相手が寄り添ってくれていました。

想像力が強く働くと怖いものも多くなります。幽霊話やホラー、暴力の話などは今でも苦手です。

でも、怖いからこそ、戦争や歴史の暗部や理不尽な社会問題をきちんと学び、そこに在る「心」を「想像する」ことは大切だと思っています。

そんな想いから「『imagine=想像力』を常にだいじに持っていたい」…という理由でアカウント名のヒントにしました。


「芋仁」という漢字2文字を当てたのにも理由があります。
まず、私は芋類がとても好きです。お米もパンも好きですが、お芋が3食だとしても私は飽きないでしょう。
大好きな食べ物を名前につけてしまいました。


芋類の中でも「甘藷(かんしょ)」について触れなければなりません。
そしてその甘藷は、私のルーツであり現在暮らしている沖縄と深い関係にあります。

─ 芋(ンム) ─
 沖縄の食文化、否、日本の食文化を大きく変えたのは1605年、野国総管(のぐに そうかん)が禁輸品であったサツマイモの苗を中国福建省からこっそり持ち帰ったことによるといっても過言ではあるまい。(略)ヤマトでイモといえばそれは長いことサトイモのことを指していた。しかし、サツマイモ・ジャガイモは江戸時代になるまで伝わらなかったのである。(略)
 沖縄では、野国総管が持ち帰ったサツマイモを沖縄の産業の父とも言われる儀間真常(ぎま しんじょう)が普及した。サツマイモは繁殖能力が大変高いうえに、痩せた土地でも育つため素人でも比較的育てやすく、日照りや台風などにも比較的耐えやすかったため沖縄には一気に広まった。(略)野国総管は現在に至るまで「芋大主(ウムウフシュ)」と親しみをもって呼ばれている。
 サツマイモの普及によって庶民の生活は大きく変化した。少なくとも「ソテツ地獄」と称された絶望的な飢饉とは縁が遠くなったといえる。(略)
 余談ではあるが、サツマイモが沖縄から薩摩へ伝わったのは、野国総管から丁度100年後の1705年、船乗り前田利右衛門によってであり、日本史の教科書などでサツマイモを全国に広めた「サツマイモ普及の父」と言われる青木昆陽(あおきこんよう)の登場までには前田からさらに30年の時を要するものだった。

『沖縄の食文化』外間守善(筑摩書房)

薩摩と名がつく前に、琉球の先人が命がけでもたらし島の飢饉を救った「芋」。沖縄の人々は多かれ少なかれ、この歴史に誇りを持っています。
まさに「芋を以って*仁となす」行為。
私もひとりの島人として、命をつないできたこの食べものと祖先(ウヤファーフジ)に敬意を表したいと思います。

(*「仁」…思いやり。慈しみ。)


もう1つ忘れてはならないのが音楽。
ジョン・レノン&オノ・ヨーコ「Imagine」です。この曲については説明不要ですね。「全地球的神話」として広く人々に浸透している楽曲です。

〜「世界はひとつ、国や人々の間に隔たりは存在しない」〜

《この曲のメッセージ》
〜「国家や宗教や所有欲によって起こる対立や憎悪を無意味なものとし、曲を聴く人自身もこの曲のユートピア的な世界を思い描き共有すれば世界は変わる」〜

…「ありったけの地獄をあつめた戦場」と米軍が称した沖縄戦。今もその苦しみから解放されないままでいる島に暮らしている者として、現在起こっている戦争は他人事ではありません。同時に、いつ標的になってしまってもおかしくない私たちの島。そんなことにはさせないと胸に刻むため、毎日SNSのアプリを開くたび、「芋仁(imogine)」という名前が私に「忘れるな」と響いてくるよう設定したのかもしれません。


当初は名前をつけるのに上記を何となく駄洒落感覚で思いついただけで、周囲にもあまり説明してこなかった私ですが、こうしてあらためて文章にしてみると、我ながら思い入れがあって名付けたのだなあと感慨深いです。

それでも今まで通り、大仰に構えることなく、これからもこの名前で私らしく過ごしていこうと思っています。

🌿imo


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