見出し画像

形のないプレゼント

 今日は12月25日、世間で言うところのクリスマスだ。

 だがこの土地、東京からおよそ1300km離れた奄美大島では少し違うニュアンスが含まれる。66年前の今日、俺の先祖は普通の日本人に戻った。より正確に言えば帰国した。


 第二次大戦後のウィーンがそうであったように、日本にも4つに分けられ連合国側に分割統治されるプランがあった。事実、今でも北方領土はロシア領だ。プランは間接的な連合国の統治をアメリカが受託し実行するという形で実施された。マ元帥が来日し、GHQの時代が始まるのだ。そして俺の先祖はアメリカ軍統治下の日本国民ではなく、アメリカ領の日本人として暮らすことになる。

 通貨は長いことB円と呼ばれるものが唯一の法定通貨として使用された。つまり日本円は正式な通貨として認められていなかったのだ。B円は「ここはアメリカ領である」ということを、当時のここや沖縄の人々に強く意識させたことだろう。琉球切手という切手が発行され、もし東京へ郵便を送ろうと思えば扱いは国際郵便と同等になる。何しろ鹿児島本土へ上る(ここでは日常的にフェリーで北上するのを上り、南下するのを下りと言う)のにはパスポートが必要だった。事実上の海外旅行だ。道路交通もアメリカに倣い、車は右側走行で人はその逆という運用をされていた。そもそもしばらく時が下るまではまともな舗装道路はあまりなかったようだが。

 1951年、サンフランシスコ講和条約により、日本の戦争状態は「ほぼ」終わった。でも俺の先祖はまだアメリカ領に住み、普通の日本人になることを願い様々な形で復帰運動をしていた。

 日本の領土としては唯一の地上戦が行われ、焼け野原になった沖縄にはアメリカ軍の基地が多数あり、また朝鮮戦争などの周辺国の状況から鑑みても戦略的価値のある土地だったために、復興には多くの資金が投入された。だがここ奄美大島には特に大きな基地もなく、沖縄と比較してしまえばアメリカにとってそう魅力的な島でもなかったのだろう。ここに戦後復興に向けた本格的な資金投入はあまりなされなかった。地上戦は免れたにせよ、今度は島そのものが財政難になってしまったのだ。加えて本土との物流も人の移動も制限されていたために、食料も日用品も、ほとんど全てのものが慢性的に不足した。つまり資本も物資もないために産業も育たず、どうにか日々を暮らすための小さな規模の、それこそ家庭単位での農業漁業や機織りなどの自転車操業がずっと続いたのだ。そのため日本復帰への運動はかなり切実な熱心さで推しすすめられる。復帰嘆願のための署名が行われ、最終的には島民のほとんどが署名をした。またおそらくは「どうせ飢えるのなら」という、半ば自棄になったような動機も少なからず含まれていたと思うが、島内のあちこちの集落でハンガーストライキも決行された。


 そして悲願は66年前の今日達成された。奄美大島は日本に復帰し、先祖は普通の日本人になった。アメリカが言うには「クリスマスプレゼント」だったらしいが。沖縄が日本に返還されるのにはさらに約19年かかる。


 今朝も復帰を記念した催しをやっていると広報車がスピーカーで喧伝していたが、あまり盛況は期待できないだろう。昭和30年時点では群島全体で人口は約20万人だったが、今では10万人ほどだ。返還は昭和28年、しかし人口のピークはその「前」にある。ピーク時の人口はほぼ23万人だ。つまり返還後に移動の制限がなくなったことにより、わずか2年ほどで2万人以上が流出しているのだ。そしてそのどこかへと移り住んだ人たちもどれだけ残っているか。日本人として戦争に行ってアメリカ領だった時代を生き抜いた俺の父方のじいちゃんも、親族をたらい回しにされながら育ちじいちゃんより長生きしたばあちゃんも、漁師で酒が飲めなかった母方のじいちゃんも、小さい魚屋をやってて「マグロだ」って言っていつも俺にただの赤身の刺身を食べさせてくれたばあちゃんもみんな死んだ。どれくらいの人が当時の思い出を抱きつつ、令和とかいう新元号まで生きているだろうか。その人たちのうち何人が歩いてそういった集会をしている歴史的な場所に自分の足で集えるだろう。俺には分からない。俺にできるのは先祖へ感謝することくらいしかない。

 俺が最も理想的だと思うのは全人類が戦争の仕方自体を忘れ、自分が握っているのは銃だと分からないまま土を耕したりゴルフボールを打つのに使う世界だが、目下それは俺が生きている間には実現しそうにもない。だから歴史は必要なのではないかと思う。あんまり得意じゃないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?