【日常的な】言葉

 先日の日記にて、「朝に日記を書くことはナンセンス」と書いた。

 果たして本当にそうなのかと、日をおいて火を置いて眺めていた。
 日記といえば、その日 (零時から二十四時までの24時間) わが身に起きた諸々を記すものである。そのため、朝という一日の始まりの時間帯に書くことはナンセンス、もとはそういった文脈であった。
 しかし、ぼぅっと灯を眺め考えていた。星は流れ、雲は落ち、自己を3周ほどしたとき、そんなことはない気がしてきた。
 ということで、この日記は朝 (現時点でAM6:43) に書かれた。その日の記録は不可能だ。しかし朝にしか生まれない言葉の羅列だってある。朝にしか見られない星空だってある。夜の月と朝の月は、同じ愛を示してくれるか?そういった次第である。

 朝から論理的な文章を組み立てる気はしないので (ここ重要)、とりあえず何かないかなと外をのぞいた。言葉に起こすのも憚られるくらいの、見事な朝焼けが胸をさした。ボクは感じたよ。「朝は良いものだ、かような景色を届けてくれるから。」そんな月並みなフレーズに溺れてしまったよ。

 言葉が気がかりな朝である。
 言葉の用い方には気をつけないといけない。言葉は事実を刻む。それ以上に、言葉は人の心を刻む。どういうことか。言葉が事実以上の意味をあなたに届けるとき、それは事実の歪曲や改変の類が生じたのではない。受け止める側に変容を促し、相当の破壊力を示す時もあればその逆もあるのである。
 言葉は不完全なツールである。さりとて人はそれ以外の伝達ツールの開発を怠った。それゆえ、不完全ながらも全一なコミュニケーションを図ろうとし、日々あたふたしている。
 つまり、言葉には言葉の持つ記号的意味を超えた意味が乗ることが往々にしてある、ということが言いたかった。言葉の裏側、言外の意味、そんな言葉で形容される (形容されない想いを形容するとは、なんて器用なんだ!)。
 赤子のような無邪気さ、危うさ、将来性を秘めている"言葉"であるが、それに振り回されているのが、現代に生きる我々ではないか。時に"言葉"は"情報"という集団となり、なにやらメタリックな媒体、もしくはペラペラな媒体からやってくる。
 言内の意味も言外の意味もすべて包含した言葉がやってくる。それには、発信者の如何様な思いが込められているだろうか?ひとつまみの善意だろうか?それとも幾分かの悪意だろうか?それとも、乗らず届かずに零れ落ちたものこそ本意だろうか?……
 そんな感じの朝であった。伝えたかったのは、日々の難しさ、そんなことだった、かもしれない。

 難しい日々が続く。難しいコミュニケーション。
 閉じてしまえば済むような。それでも何か足りないような。
 外れてしまえば良いような。それでも踊っていたいような。
 もうダメだと、潰れてしまったその瞬間に、
 芽吹く奇跡もあるような。


より純度の高い活動の支援に協力をお願いします。