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「嫌われる勇気」感想⑤(最終回)人生とは何か。

いよいよ今回で「嫌われる勇気」レポート?感想文?最終回です。

この本に登場する青年は考えました。
前回の終わりに共同体感覚が重要ということだったが、それだけでいいのだろうか?
自分はもっとなにかを成し遂げるために、この世に生まれてきたのではないかと・・・

青年は自意識過剰なため、人前で自由に振る舞うことができないと哲人に思いを伝え、どうすれば克服できるのかという話になります。

その答えは、

自己への執着を、他者への関心に切り替えること。
重要になるのが、
「自己受容」、「他者信頼」、「他者貢献」の3つ。

この3つの解説から始めましょう。

1.自己受容

自己受容とは、ポジティブになって自己肯定感を持ち、前向きに考えるということではありません。
できないならできないと受け入れる。
その上で、どうすればできるようになるかを考えることなのです。

「肯定的なあきらめ」という言葉を哲人は使います。

カート・ヴォネガットという作家の「スローターハウス5」という小説に出てくる言葉

「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」

ここでも勇気という言葉が出てきます。
われわれは、なにかの能力が足りないのではなく、ただ勇気が足りていないと哲人は言います。

2.他者信頼

自己受容ができても共同体感覚を得られることはできない。
「自己への執着」を「他者への関心」へ切り替えていくときに欠かせないのが「他者信頼」になります。

対人関係の基礎は、「信用」ではなく「信頼」である。
そして、

他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと

・・・これでは裏切られたり、騙されたりするのでないか?

哲人は言います。
信頼の反対の「疑い」を持っていると相手はそれを察知します。
そこからは前向きな関係は築けない。
無条件の信頼を置くからこそ深い関係が築ける。

これは対人関係を良くするための横の関係を築く手段である。

信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。

そして、裏切られるかもしれないとい思うことがあるかもしれないが、裏切るか裏切らないかは他者の課題で、「自分がどうするか」だけを考えればよいと言います。

3.他者貢献

他者貢献とは、自己犠牲ではありません。
「わたしは誰かの役に立っている」と思えた時にだけ、自らの価値を実感することができます。

他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。

例えば、社会にでて働くこと、家事をすることなど、そうした労働によって他者貢献をして「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感して自らの存在価値を受け入れているのです。

この自己受容、他者信頼、他者貢献が共同体感覚を得られるものなのです。


4.幸福について

これまでこの本では「幸福」というキーワードは出てきませんでしたが、終盤になりいよいよ「幸福について」の議論が始まります。

哲人は言います。

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。
「わたしは共同体にとって有益である」
「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、
自らに価値があることを実感させてくれるのだと。

前に出てきた「他者貢献」にもつながりますね。

“誰かの役に立っている”ということ、すなわち「貢献感」を持てればいい。

「幸福」とは「貢献感」である。

僕はこう思います。
あまりに自分の事だけを考えていては幸福とは縁が遠くなる。
世間一般の道徳的精神を心から発することができれば幸福に近づくのだろうと。
こうするものだから行ったという儀礼的、マナー的に行うのとは別であると思います。


5.自己実現

青年は貢献感が人を幸福にするということを教えられたのですが、まだ疑問は残っていました。

課題を対人関係に閉じ込めてしまって、自己実現をするというような幸福については語っていないと。

哲人は以前にでてきた、向上したいと願うことや理想を追求するという「優越性の追求」という普遍的な欲求を持っているといいます。

特に子供の場合は、認められたいという欲求から良くも悪くも「特別な存在」になろうとすることが多いといいます。

なぜ「特別」になる必要があるのか?

それは、「普通の自分」を受け入れられないから。
普通であることは、本当によくないことなのか。
劣ったことなのか。
誰もが普通なのではないか。・・・

アドラーが大切にしているのが、

「普通であることの勇気」

「普通であること」は「無能であること」と同義ではない。
わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないと言います。

これに対して青年は、平凡で誰の記憶にも残らないような人生だと否定します。そんな生き方は怠惰であり、人生にはもっと高邁な目標を掲げることが必要だといいます。


6.人生とは連続する刹那である

いよいよこの本の締めくくりになりました。
普通であるということはどういうことなのか。

哲人は登山を例えに出します。
もしも、人生が登山だとしたら、人生の大半は途上になります。
不慮の事故や自分の能力不足などの理由で山頂に辿り着けなかったら人生はどうなるのでしょうか。

人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」で捉えています。
アドラー心理学の立場では人生は「点の連続」だと考えます。
線を拡大してみると、線だと思っていたものが実は連続する点だということがわかります。
すなわち、

人生とは、連続する刹那なのです。

われわれは、「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。

目的地に辿り着くまえの道のりは、目的に達していないという意味においては不完全であるという考え(キーネーシス的)と、
「過程そのものを結果とみなす考え」(エネルゲイア的)の二つがあるということ。

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなる。

人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこし、過去や未来が見えてしまう。見えるような気がしてしまう。

過去にどんなことがあったのかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうあるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないということ


7.人生の意味

最後に「人生の意味」について書かれています。

アドラーは「一般的な人生の意味はない」と答えたそうです。
しかし、「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と言ってます。

本では例を挙げていますが、僕はこう思います。
生まれや育ちは皆違います。
能力や性格も違います。
でも、受け取り方、考え方で人生は自由になると。
それが自分に人生の意味を与えるということなのでないないかと思います。

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「嫌われる勇気」を今になって読んで、思いのほか触発される部分が多かったので感想文というよりは内容のまとめのようになりました。

最後まで読んで、今後忘れないようにしたいと思うことは、
・「変わる勇気」「嫌われる勇気」「普通である勇気」が必要。
・自分は自分であるということを自覚し、自分に嘘をつかず、自分の人生を送る。
・貢献感を大切にする。
・われわれは「いま、ここ」にしか生きられない。


第一回目にも書きましたが、「いま、ここ」はまさに仏教の教えです。過去にも未来にも捉われない生き方。他で教わったことが他のジャンルでリンクすると思わずハッとさせられ、さらに理解が深まります。この部分が僕にとって一番の収穫だったのではないかと思います。
ちなみに刹那という言葉も元は仏教用語だそうです。

この本を読んで多くのことを学び、意欲も湧いてきました。
そして、少しは前に進めるような気がしています。

拙い文章ですが最後まで読んでいただきありがとうございました。この本に興味が湧いた方はぜひ手に取って読んでいただきたいと思います。この記事より100倍面白く、理解も深まると思います。


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