「嫌われる勇気」感想③ 自由に生きるために!ついにあのキーワードが登場
第3章(第三夜)
前回では、「すべての悩みは対人関係」であるということで、劣等感に関することを考えるうえで、いかに自分に問題があるかということを示しました。
今回はさまざまな時に起きる「他者に認められようとする心」のアドラー流の解釈です。
①「他者の課題を切り捨てる」
人は誰しも他者から承認されると嬉しいもの。
そうすることで自分に価値あるものと認識することになります。
しかし、認められよう、承認されようと思っていると、承認されなかった場合に不満という気持ちが起こります。
アドラーはどう解釈して解決していくのでしょうか。
アドラー心理学では、他者から承認欲求を求めることを否定します。
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
他者から褒められるため、認められるために行動する。
これらのような他者の為に生きていることは、他者の人生を生きることになるといいます。
わたしたちは普通、適切なことをすると褒められ、不適切なことをすると叱られたり、罰せられたりします。その賞罰教育に問題があったともいいます。
“個人的”には、社会の善悪を教えるために賞罰教育は必要かとも思いますが、たしかに場合によっては「褒められる」ことに喜びを感じ、「褒められるため、認められるため」という判断で生きるようになる人がいてもおかしくありません。
そうなってしまうのは賞罰教育の罪悪だと思います。
このように「他者からの期待」の求めない生き方を理解するのに、「課題の分離」という考えを知る必要があるといいます。
たとえば、「子供が勉強をする」という課題があった場合、親が子供に対して親が「勉強しなさい」と命じるのは土足で踏み込むような行為だといいます。
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
およそあらゆる人間関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。
誰の課題かを見分ける方法は、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えることだそうです。
あまりに放任主義的で極端な気がしますが、放って置く訳ではなく、親は子供がなにをしているか知ったうえで見守り、本人の課題であることを伝えることが必要だとします。
自分を変えることができるのは自分しかいないということです。
②「嫌われる勇気」
他者からの承認を選ぶ、そんな不自由な生き方をなぜ選ぶのか?
他者の期待を満たすように生き、自分に嘘をつき、周囲の人の人々に嘘をつき続ける生き方。
そんな不自由な生き方。
それは、言い換えれば「誰からも嫌われたくない」ということ。
しかし、これは、人間にとってきわめて自然な欲望だそうです。
その欲望のまま生きてることもできるが、それは本当の自分を作ることになるのだろうか?
自由とはなにか?
ここまで読むとわかりますよね。
そうです
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自由とは他者から嫌われることである
ついにここで出ました「嫌われる」こと!
自由に生きるためには、
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。
嫌われるような生き方を勧めるのではなく、
嫌われることを怖れるなということ。
ここで「課題の分離」を応用します。
「嫌われたくない」というのは自分の課題かもしれないが、
「自分のことを嫌うかどうか」は他者の課題である。
見事にまとまりましたね。
僕も含めてですが、嫌われたくないがために、自分を押し殺すようなことがありませんか。
そんな自分に嘘をつく生き方は誰の為にもならないということ。
自分に嘘をつかず、怖がらないこと、
「嫌われる勇気」を持つかどうかというただそれだけの問題です。
そして、「嫌われる勇気」は「幸せになる勇気」にも繋がるのというのです。
少し勇気が出て来たでしょうか?
それとも難しいと感じるでしょうか?
とにかく後は自分次第です。
まだまだ悩みや疑問の解決への対話は続きます。
次回④へ続く
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