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溶けることば

先日誕生日でした。ありがたいことに、30越えても生きられてます。

母から贈っていただいた誕生日プレゼントは、「日本の大和言葉を美しく話す」と「ビジュアル大和言葉辞典」でした。我が家は渋いなぁと、当人も思います。でも、夢中になって読んでました。

エッセンシャルマネジメントスクールでの、振り返りを重ねていくと、不思議と哲学者たちが目指す境地に向かっているのではないか?と感じてきました。

プラトンのイデア、アリストテレスの形相、仏教の空、ヘーゲルのアウフヘーベン、カントの定言命法、ユングのアブラクサス、武術の身心一如・・・。

「区別がありながら、区別なく」「矛盾しながら矛盾なく」の境地が、「論理」の「実践(行動)」を通しての自己変革というこれまでのエッセンシャルマネジメントスクールの流れに見事に合致していると、個人的には考えてます。

さて、エッセンシャルマネジメントスクールの仲間とまたさらに、振り返りの共有していたとき、旭川の阿部泰之さんがまた興味深いことをおっしゃっていました。

「境界がない」。

ああ、それだ!と文字を読んだ瞬間に思いました。

「境界がないけど区別がつく」ものを人間は「ことばによって境界をつくる」ことをしてきました。養老孟司先生によれば、「解剖学」はその最たるものだということです。

日常的にも、そうです。「食べ物」と「生ゴミ」の間は、実はかなりグラデーション、曖昧なはずですが、私たちは「これは?」「ゴミ!」といった瞬間に、ゴミ箱に捨てることを躊躇しなくなります。

ことばは、事象を切り離して認識するために使われることが多い。

しかし、実は反対のことばがあるのではないか?名前をつけることで対象の切り分けを行う「切ることば」とはまた違う、対象と自己を融合させる「溶けることば」があるのではないか?

いま、直感的にそう感じています。

おそらく、これも、日常のことば。たとえば、「ありがとう」は自分と相手の二重肯定と、西條剛央先生もおっしゃっていましたが、「ありがとう」を僕とあなたの間も包摂して、まるごとに使えるなら、それは自他の境界を淡くして、融合させるきっかけになるのではないでしょうか?

エッセンシャルマネジメントスクール仲間の城保江さんの「日本語本質探求クラブ」に参加したとき、「敬語は自分も相手も肯定することば」と聞いて、なるほど、と思っていました。

翻って、これまで科学のはしっこを、指先でかすめた程度でしたが、僕は、どうしても「切ることば」ばかりを磨いてきたように思います。もちろん、それも悪くはない。厳密性とは、区切りをきっちりとつけていくことです。

ただ、人間活動はコミュニケーションを基軸としたチーム戦です。そのときにも「切ることば」を多用していては、たまったものではありません。これまでエッセンシャルマネジメントスクールで学んできたことをさらに動員すれば、それは他人に対してだけでなく、自分に対しても言えます。

「溶けることば」、使ってたかなぁ。

ひとつキーワードにして、また日常を振り返ってみようと思います。

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