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1月30日から「エッセンシャルマネジメントスクール」という社会人大学院に通っている。もう一ヶ月ほど「本質」について、考え続けている。 本質とは「人々が感じるそれぞれの質のなかで、お互いに共通して感じられるもの」という自分なりの定義をしている。 今日、それで、はたと気づいたのは、それでもまだ、「目に見えるもの」を「本質」としていた自分の浅はかさだ。 ことばでとらえて満足し、それがすべてを、引き連れてくると、思っていた。 ことばは大事だ。よく磨かれたことばは、「本質」をと
先日誕生日でした。ありがたいことに、30越えても生きられてます。 母から贈っていただいた誕生日プレゼントは、「日本の大和言葉を美しく話す」と「ビジュアル大和言葉辞典」でした。我が家は渋いなぁと、当人も思います。でも、夢中になって読んでました。 エッセンシャルマネジメントスクールでの、振り返りを重ねていくと、不思議と哲学者たちが目指す境地に向かっているのではないか?と感じてきました。 プラトンのイデア、アリストテレスの形相、仏教の空、ヘーゲルのアウフヘーベン、カントの定言
エッセンシャルマネジメントスクールに通って、残すところあと二回までたどり着いた。 毎回の話が数週間の時を経て気付きをくれる。 今日は大久保寛司さんの「理解されたときに人は変われる」について。 エッセンシャルマネジメントスクールに通うことで、自己変容が起こっている人が多い。これだけ書くと噂に聞く自己啓発セミナーや新興宗教と似たようなもの感じられるかもしれない。 しかし、誰も無理強いはしない。信じることも、やることも、誰かに強制されているわけではない。習ったことを使って自
進めていただいた鈴木大拙の言葉を読んでいる。 最初の「自由」の項から面白い。 「自由」は訳語であり、古来日本や中国で使われているニュアンスとは異なると言っている。 「束縛からの解放」を「自由(リバティ)」と西欧では言うが、東洋では「自ずから由る」こと。由るとは存在であること。 絶対とは「対するを絶つこと」すなわち「他との存在区別を絶つこと」。 ごちゃごちゃ考えなくてもそこに存在することが「自由」なのだと思う。 欲望(これは他の存在が関与している)のままに、ではなく
22時すぎに那覇空港に到着した。モノレールまでの高架橋に、空港から一歩出た瞬間に南国独特の湿気と、あのむわっとした匂いに包まれた。 ひねくれてるので、いつも「飛行機に乗ったけど実は盛大なドッキリで、寝てる間にセットが変えられてて同じ場所に降り立っただけ」という感覚を持つことがある。 建物を入れ換えて、舞台の上の書き割りのように変えられたとしても、僕はたぶん、わからないだろう。 しかし、空気はごまかせない。 そう、那覇に降り立ったときに感じた。 EMSで大久保寛司さん
ビジュアライゼーションのお話をした。 感覚的に「目に見える」ときに、人は「わかった」「面白い」を感じやすい。 たしかに、人は想像の中でしか物事をとらえられない(脳で構成することを想像というなら)。その構成能力は「観察」からしか生まれない。 そのお話をお伺いしていて、読解力が低くなっているのは、文を読まなくなったからでも、ゲームばっかりやってるからでもなく、「観察」する機会が少なくなったからだということを考えている。 観察は、同じ違う、色は?構造がどうなっているのか、動