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コロナのせいで、いま読むべき本が分からない

本屋は、それ自体が1冊の本のようなものだ。
店内を“読む”ように歩くことで、自分の「知りたいこと」が見えてきたりする。

テーマを探す時、アイデアにつまった時、ゆっくり、じっくり、2時間くらいかけて本屋を歩く。お気に入りは青山ブックセンター。

ところが昨日、「コレは!」という本になかなか出会えなかった。

「GAFA」「データ×AI」 「異能人材」「クリエイティブ人材」そんなうたい文句がノンフィクションや新刊のコーナーにはずらりと並ぶ。

当たり前だけど、どれも「コロナ禍」の前に書かれたもので、そこに書かれた“熱狂”が、ずいぶん古く遠い世界の話に感じられる。

いろんな人がぽつりぽつりと書いているけれども、ひょっとしたら、私たちは歴史の転換点にいるのかもしれない。

そんな時に必要なものは、ちょっと前に書かれた
「今の世界は変化が激しい!すごい!乗り遅れない人材を!」という物語ではなく、コロナ後の世界を再構築していく「新しい物語」なのではないだろうか

生産性という物語の機能不全

この10年、世界を牽引した物語の一つは「生産性」だと思う。

それを中心にいたのがデータでありAIであった。それらがやってきたことは無駄な隙間を埋め、極限まで省力化し、需要と供給を緻密に組みあげていく、精巧なカラクリ人形づくりのような行為と言えるかもしれない。

ところが、このコロナウィルスというやつは、「生産性」とは無縁で相性もすこぶる悪い。

「るろうに剣心」の中に外印という超絶技巧の人形師がいた。
彼が作った夷腕坊という人形は、指の先まで自在にドリルのように回転することで強力な攻撃を放ち、主人公を追い詰めた。

でも、その精巧さゆえに、たったひとつ石の破片が歯車にはさまったことが致命的となり、主人公に敗れた

コロナウィルスは超生産性社会にとっての「小さな石」のようだ。
この小さな石が社会の歯車にはさまったことで、マスクはおろか、十分な在庫があるはずのトイレットペーパーまで手に入らなくなった。

私たちがいま体験していることは、コロナによって社会が破壊されたというよりも「機能不全に陥った」という方がしっくりくる。

資本主義の中には「物語」が流れている

資本主義はあまりに強靭なので死んだりしないと思うけれども、大きな事件や災害を経ると、その「性格」は変わる。

この10年、私たちは「生産性」の物語を応援した。そして生産性を極限まで高めたTech企業には巨額の投資が流れ込んだ。たとえば下のグラフは、超便利なので私もお世話になっているAmazonの成長の様子。

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「持続可能性」や「社会課題の解決」を掲げる“良い” 物語にもお金が流れるようになったし、古いけど強固な「ナショナリズム」という物語を多くの人が求めたことで、大きな製造業や公共事業にお金が流れたり貿易戦争が勃発した。

「コロナ・ショック」は生産性の脆さをつまびらかにした。
そして今後は、どんなに自粛を求められても、非生産的でも「やらずにはいられないこと」を炙り出すかもしれない。

青山の街を歩くとガラス張りの美しいカフェに、若い女性が長蛇の列をなしていた。おいしい白米が人気の定食屋でも、外まで待ちができていた。

先週末には、さいたまで自粛要請を振り切ってスポーツイベントも行われ6000人以上が集まった。

「自粛しろ」と言われても、やりたくなってしまうこと。こうした事柄の中に、結局は私たちにとって「欠かせない何か」があるような気がしてくる。

こういう時は、未来を不安視したり、未来をなんとか見通しやろうとやっきになっても仕方がないのかもしれない。

それよりも、「外出を自粛しろ」と言われても足を運ばずにはいられないスポーツイベントや演劇、ライブ…そうした中に、次の10年の「物語」を探してみたい。

文学やアートの底力は、こういう時に発揮される気がする。

そんなことを考えながら書店を歩くこと2時間。
せっかくだからと1冊だけ手に取り、店をあとにした。

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