言葉を知る、ということ
言葉を知ると世界の「解像度」が少しあがる。
言葉を一つ知るだけで、体の中の機構が少し組み替えられる、気がする。
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近所にチャキチャキした60前後の女性が営む、小さな飲食店がある。マンションの一室で、週の半分だけ営業している。メニューはほぼ一択、旬の食材を使ったやさしい定食が美味しく、実家のようなゆっくりした空気が心地よい。
そこで落語会を開かれたり音楽会が開かれたりするので、食堂というよりも街のみんなのダイニングという存在。
先日、そこに60代か70代の3人の女性客がいた。暖かく春らしい日で、彼女たちの声も弾んでいる。そのうち旬の食べものについて話すのが聞こえてきた。
「私、春になると菜の花の天ぷら食べたくなるの」
「いいわね。私はうるいが大好き」
「こごみもいいわよ。」
「春」「おいしい」から始まった山菜の連想ゲームを聞いているうち、私も無性に「うるいの酢味噌」が食べたくなってくる。
ぽんぽんと彼女たちの口から豊かで美味しそうな春の山菜の名前が出てくるのに驚きながら、彼女たちが見ている春は、私の春よりもずっと解像度が高く鮮やかなんだろうなと感じた。
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細かく名前を付け、ていねいに区別するというのは、ほとんど「愛している」と同義かもしれない。
以前、ノルウェー西部の港町・ベルゲンを訪れた。
北海に面し、リアス式海岸の入り組んだ入江に開かれた港町と聞くだけで、日本人の感覚としては「最高の漁場やん」と期待が膨らむ。
ところが、どのお店に入ってもメニューにあるのは、いつも「サーモン」か「ホワイト・フィッシュ」だ。
街の小さな食堂からガイドブックに載る高級店まで、どこも同じ。ホワイトフィッシュの正体はほとんどが cod(タラ)。
サーモンもタラもまちがいなく美味ではあった。脂のノリも、身の締まりも、サイズ感も申し分ないし、焼いたり、蒸したり、こだわりのソースをかけたりと、店ごとに趣向も凝らされていた。
しかし、である。
宝の山のような漁場が目の前に広がる港町なのだから、もっと多種多様な魚料理があっても良いのではないだろうかと、不遜ながらも思ってしまった。
食べながら、つい日本の魚市場や鮨が恋しくなる。悪い癖である。ともすると、何十種類という魚が庶民のスーパーに並び、魚の名前の漢字を湯呑みにわざわざプリントし、魚の名前でクイズまでできてしまう日本人の魚への情熱たるや、並々ならぬものかもしれない。
そう、日本人は魚を愛しているのだ。
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モノの名前を知っているというのが「言葉を知っている」ことの“初級編”だとすれば、“上級編”は言葉を聞いただけで、なにかしらの体験が喚起される状態ではないだろうか。
「レモン」という文字を見て唾液が出てくるとすれば、あなたは「レモン」という言葉の上級者だ。
「言葉」ひとつで、自然と唾液が湧き出るような体になってしまうように、実は「言葉を知る」ことは、私たちの体を“作り変えている”のではないか。
近所の食堂に来ていた菜の花、うるい、こごみが大好きなお母さんたちは、もちろん、それぞれの名前を知っているだけではないだろう。
それぞれの言葉を口にする瞬間には、
「菜の花」の生命力あふれる苦味と爽やかな香りを、
「うるい」の滑らかな舌触りを、
「こごみ」のはらはらと崩れるような食感を、
きっと思い出しているにちがいない。
言葉を知るとは、食べなかったものを食べれるようになることであり、見えなかったものが見えるようにことであり、その言葉を反芻するだけで、すっぱくなったり、切なくなったり、うきうきしたり、うずうずしたりするような新しい自分になるということなのだ。
言葉をよく知ること。
それによって私たちは五感をさらに働かせ、世界とつながることができるのかもしれない。
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