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第二回『暇と退屈の倫理学』読書会の記録

前回に引き続き、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の読書会を開催した。今回も興味深い意見や感想がたくさん集まったので、一つ一つを紹介していきたい。

前回の記録


読書会詳細

『暇と退屈の倫理学』読書会 第二回
開催日:2022年8月13日 18時〜20時
会場:ニネンノハコ(津市大門9-7)

全四回開催予定。第二回は「第三章」から「第四章」までを取り上げた。

読書会の目的

  • 本を読み切ること

  • 暇とどう向き合うかを各々考える


参加者および参加目的

Aさん…課題本がじんぶん大賞を獲得したのがきっかけで読んだ。熱量が好き。
Bさん…読書会をきっかけに読んだ。みんなどこかで考えていることだと思うけれど、文章としてまとまってて面白いと思った。
Cさん…(途中参加)
Dさん…(途中参加)
Eさん…(途中参加)

※あくまで発言者の区別のための記号であり、実際のお名前や前回参加者の区分とは関係ありません。


第三章:暇と退屈の経済史

かつて存在していた有閑階級の人々は、暇の中で退屈せずに生きる術を知っていた。しかし、労働革命によって大衆が暇を獲得するようになり、退屈に苦しむ人々が増加した。資本家は労働者に余暇を与え、積極的に消費へと向かわせるようになった。

主催者による要約


・有閑階級は暇を生きる術を知っていたというが、その術とは? それって結局「ウサギ狩り」では?
→A:いつの時代かによるのではないか? スクールの語源のscholé(スコレー)は暇という意味があった。その時代は労働を奴隷にさせて、暇になった人は学問をしていた。そういう時代の話であれば「暇を生きる術」というのはわかる気がする
→封建時代のヨーロッパって書いてあるし、中世あたりの話ではないか
→B:國分先生の中では幅広く考えているのかもしれない
→『有閑階級の理論』を斜め読みしてると、かつての有閑階級がやっていた職業として「統治、交戦、スポーツおよび宗教的儀式」とある。このスポーツというのが狩猟だと思う。そう考えるとやっぱりウサギ狩りなんじゃないの?と思っちゃう
→ 國分先生の見解を一旦置いて解釈するのであれば、古代ギリシャの「暇を学問にあてる」というのはヒントになるのでは

このような上流階級の非産業的な時の過ごし方は、大雑把に言うと、統治、交戦、宗教的儀式およびスポーツである

ソースティン・ヴェブレン 高哲男訳
『有閑階級の理論 増補新訂版』講談社学術文庫 P13


・有閑階級の理論もちゃんと読みたい。確かにモリス批判はあるけれど、そこまでバッサリ断ち切っている感じでもないように思えた。この本にはこの本なりの理屈があるはずで、そこは原著をちゃんと読まなければなんとも言えないなと

・B:管理されない余暇があったとして私たちは何をすればいいのだろうか? とあるが、いや分からないことはないだろうと思った。世間一般的にはそういう感じなのかな。そうだとしたら供給側が欲望を提供するという話に説得力が出てきて面白い
→確かに暇倫では、暇だったら何をすればいいか分からないというのが暗黙の前提になってる
→B:もちろん「分からないことが問題」という話の進め方なのだけれど、「分からないでしょ?」っていう感じがちょっと面白い
→そもそもこの本を手に取る人自体がそういう人なんだろうなと
→C:だよねと思わないと進んでいかないから、そう思うことにした。自分としては納得いかない部分もあるけれど、映画とか選ぶときは確かにそうかも
→B:暇になったとき「よし、今から何やるか考えよう!」となる人はあまりいなくて、「暇だから何か見に行こう、宣伝されていたものを買いに行こう」となることを問題にしてるんだというのは理解できた
こういうふうに「この観点で話を進めます」と言い切ってくれるのはわかりやすい。
「こっちもあるし、こっちもある」という感じで守備を取った本は、小説ならまだしも、こういう本の場合は分かりにくくなってしまう
→暇倫は全体的に立場がはっきりしている。逆に熱中しすぎると疑問を抱きにくいかもなと思う
→C:ちょっと納得できないかな。でも読み進めてみるか、という本なのだと思う
→A:話の持っていき方がうまい
→C:「こうでしょう?」って感じ
→B:それが逆に疑問も生ませやすくて、「こうですよね」って言われるとそれはどうかな? となるから、結果的に考えつつ読めるという
→まさにそれが狙いなんだと思う。この本を読んで考えさせられること自体が退屈しのぎ

・フォードは15年ずっと同じ型を売り続けたのに対して、GMはデザインを強みに出して、ファションの「モード」を車に取り込んだらしい。これはまさに記号消費だなと思った
→C:GMが売れたのはそういう理由だってよく聞く
→D:フォードは一番最初に現代的なライン生産を始めたっていうのは有名
→C:フォードに対して売上が急に伸びているGMは、光の部分と闇の部分がある
→D:フォードが作り上げたシステムを、GMが進化させたというか

・「チェンジした」という情報の消費は身近に感じられるところ。カメラも画素数アップデートで無理やりモデルチェンジしてる感がある。最近も空気清浄機を買おうとして調べてみたら、「2017年モデル」「2018年モデル」「2019年モデル」とかあるけど、全部同じ。型番が違うだけという
→A:電子辞書も似たような感じ
→E:ちょっとボタンの雰囲気が違うとか
→D:ちょっと「あ」のボタンを無くしてみましたとか
→辞書なんて毎年改訂されるわけがない

・最近けっこうセルフケアブームだけど、それも結局「労働者を健康にして生産性を上げる」という話だなと
→A:戦争に行く兵士のケアなんかにつながってしまう部分もあるのかなと。戦争を突き詰めてしまうと兵士のケアに行き着いてしまうのではないか。戦争に行ってしまった人のPTSDとかに対するケアは大事なことだと思うけれど
→E:ケアしないといけない人を生む前提がおかしい
→結局その論理に取り込まれてしまっているという
→A:今の戦争は国同士だから「国が悪い」みたいな感じになっちゃう。労働でいうと「資本主義が悪い」ということになる。そういうボンヤリした敵みたいなのがみんなモヤモヤするのだろうなと思う

・A:聖書や古典はフォード、現代の本はポストフォードみたいな感じがする
→D:夏目漱石はクラシックカー。それがいいから選ぶんだっていう
→A:学習参考書を選ぶとき、どれがいいんですか? って聞かれても……
→D:中身は大体同じ
→B:どれがいいかを店員に選ばせるのはおかしい。学校の先生に聞くか、本人の直感で選ぶべき。どれを選んだところで他のものと比較できるわけじゃなんだから、とにかく選べばいい
→E:今はどの界隈でもそんなに粗悪なものってあまりないと思う。ハズレがあまりないからこそ迷って人に聞くけれど、聞かれた側も分からないというか
→A:資本主義的だけど、「これが売れてるからこれがいいです」と言うしかない……
→E:プリンターは発売からある程度経つと専用インクの販売をやめるらしい。インクの販売をやめてしまうと別のプリンターを買わざるを得ないから
→D:電気屋さんに買いに行っても、古い型のプリンターのインクはもう売ってないとかある
→A:T字カミソリの、本体は安いけど替え刃が高いという「替え刃商法」と同じ
→D:企業向けのプリンターはトナーの方が高い。純正だと
→E:でも純正じゃないと壊れますよと警告されたりして
→D:保証できませんって言われると日本人としてはそれで怯んでしまうから、やっぱり純正を買っちゃう

A:「日本では一九八〇年代に『差異が消費される』云々といった話をうんざりするほど聞かされた」とあって本当にうんざりしてるんだろうけれど、その時の分析がちゃんと反省されないまま来ていると
→B:國分先生は「解釈が違うんだ」というような指摘をわりとしているけれど、そもそもの分析がおかしいのなら、もう一度分析し直す必要があると思う
→A:「差異が消費される」という問題が表れてきても、それを変えられないぐらい資本主義は強力なのかと思った

漱石はクラシックカー?


第四章:暇と退屈の疎外論

消費社会において物は記号的に消費される。ゆえに「消費」には限界が無く、決して満足することができない。消費者は自分自身を終わりなき消費のサイクルに投じており、それは「現代の疎外」とも言える問題である。我々は、本来的な理想状態を設定することのない「本来性なき疎外」の考え方によって、この問題からの解放を考えなければならない。

主催者による要約


・「消費」と「浪費」の違いが分かるような分からないような。「浪費」って言葉自体がどうしても「無駄遣い」というニュアンスを持ってしまうからか?
→消費はだれかに「あの店に行ったよ」と言うためであると書かれていて、それって結局は「他者の目を気にすること」なのかな?
→B:浪費は有機的・消費は無機的な感じがする。浪費は動物っぽくて、消費は人間っぽい。「どこかに行ったと言いたいから行く」というのは疑問だけど、記号として消費するというのは分かる。Aの店もBの店も値段と美味しさは同じだったとしても、「Aの店よかったよ」と誰かが言ったらみんな行きたくなるというのは、お腹を満たすために行ってるんじゃなくて、「そのお店はいい店だ」という記号を回収しに行っているというか。血が通ってない感じがする。回収ゲームというか。一般的な浪費消費のイメージを変えるのがちょっと大変だったけれど、こっちのイメージの方がしっくりきた。

「消費」には終わりがない


・個性も消費の対象になっている
→前回も「個性個性っていうけれど、結局何なのか分からない」というような話があった
→B:学生の頃の「個性」ってすごく形容詞的だった。「あの子は個性的」と言うとき、それはちょっと変わってるみたいな意味だった。ちょっと突出したことをやってる人を「個性的」と褒めるというか

・狩猟採集民の生活は浪費的で、豊かな社会だ
→最近の「山奥ニート」とかがそんな感じ?

・B:同じ商品をずっと作り続けられないからモノが希少というのは分かるけれど、物質的には間違いなく過剰だと思う。生産計画で売れ残るほど作ることはないと思うけれど、AもA´もA+も結局ぜんぶ「A」だけど、それぞれ10個しかない。だから希少なのだけれど、消費者側がそれは全部ほぼ同じってわかってたら「過剰」になると思う
→A:社会としてはモノが溢れているけれど、それが個人に反映されていないというズレが問題なのだろうなと思う
→水は本来誰でも獲得できるものだったけれど、資本主義がそれを囲い込んでしまったという話とも関わっているのかなと思った
→E:最近は受注生産というのが結構多い。本とかでも重版が出たとして、そもそも初版がすごく少ないとか。無駄を無くそうという企業側の思いには共感できる一方で、消費者側からすればもったいつける必要のないものまで希少として買わされてる感じもある
→C:売り切れたものは購買意欲が上がったり
→マーケティングで言う「限定」とか
→C:ランドセルなんてすごくオーダーメイド
→D:ランドセル、小学二年生ぐらいまでしか持ってなかった気がする

・C:友人と話している時に、「漁師町の人は浪費家が多い」という話題があった。なけなしのお金を使ってしまう。海に出たらすぐに元が取れるからという。一方の農作してる人たちは飢饉があったりして本当に採れるかどうかが分からないから蓄えるという
→B:確かに習慣というのはあると思う。農耕民族は貯蓄して備えるという習慣で育ってきている。いきなり採集民族になるのは無理だけど、考え方としてはすごく分かる。自分が家を買いたくないとか色々なものを決定したくないと思うのは、それでも多分生きていると思っているから。これは実際的に使える考え方なのではないか。
狩猟採集民は文明から離れてしまった人扱いされるけれど、時間に囚われたくないから自ら狩猟生活を選んだのではないかという説もあって、それはすごくよくわかる。
法律的にできないことは置いといて、そういう方向性は現代でも可能なんじゃないかと思う。
→D:フィリピン人はすごく浪費家という話を聞いたことがある。給料を一ヶ月分もらうと、一週間で使い切ってしまうという。「給料出た! みんなで食おうぜ、テレビ買おうぜ」で使い切ってしまって、「さぁどうしよう?」と。そういう国民性らしい
→E:死なない程度ぐらいにしか残さないということ?
→D:貯金をしない
→B:助け合いとかになるのでは? この一週間はこの人たちに食わしてあげたから、今度はお金ある友達に助けてもらうみたいな
→C:一ヶ月だと大変なことになるから、給料日を二週間ごとにするとか
→E:国民性を加味して考えてくれる? すごい
→C:給料日の時はキャッシュコーナーにすごい列ができて、バーゲンとかもすごいらしい
→結局浪費できるっていうのは将来に対する不安がないという
→C:親戚がどうにかしてくれるというシステムらしい。辿っていくと金持ちの親戚がいるとか。そもそも気候的にも暖かいからなんとかなるみたいな
→D:その辺の軒下にバナナがなってるとかマンゴーがなってるとかあるのかな
→C:浪費家の人は、自分のことを浪費家と思ってない


・ファイトクラブについて《ネタバレ注意》
→ファイトクラブはファシズムでもある。口外してはいけないというルールとか
→C:その制約に自分が苦しめられるというのが面白かった
→あれも疎外と言えば疎外かもしれない
→E: ファイトクラブじゃないけれど、『サイコメトラーEIJI』で殺し合いをするという回があった。退屈を持て余した金持ちが集まって、紙袋をかぶってくじ引きをして、選ばれた人をみんなが殺すという
→C:まさに「退屈の反対は興奮」
→E:ストレスがないことがストレスになりうるというか

・ファイトクラブのオチ《ネタバレ注意》
→「これから すべてよくなる」みたいなセリフで終わっていたけれど、どういうことだろう
→B:視聴者の「そんなわけないやろ」ツッコミありきなのかなと
→ハッピーエンドのように描かれているけれど、その後どうなるんだ? という

〈疎外〉

疎外とは…

人間が自らつくり出したものが、逆に人間を支配し、人間の「人間らしさ」を奪うこと。

Z会編集部『現代文 キーワード読解[改訂版]』P41

元来はヘーゲルの用語で,自分の中にあるものが外に表れ,人間から離れ人間を支配する力となり,人間性に属するものが人間から独立して,人間性を損なうものとなることを意味する。マルクスは人間の本質は労働にあるとし,特に労働疎外を強調した。

『新訂第2版 倫理資料集』清水書院 P220


・暇倫におけるルソーの解釈、違くね? みたいな意見があったので、『人間不平等起源論』を斜め読みしてみたけれど、たぶん間違ってはないと思う
→C:だんだん参考書量が増えていく…
→ 國分先生もそれが狙いなんじゃないかと

この主題について行える探求は、歴史的な事実ではなく、ただ仮説的で条件的な推論であると考えなければならず、この推論は、真の起源を証明するよりも、事態の本性を解明するのにふさわしく、わが自然学者が日々、世界の形成について行っている推論に似ているのである。

作田啓一・原好男訳
『イデー選書 ルソー 社会契約論/人間不平等起源論』白水社 P212

ルソーはこの論文で、自然状態と自然の状態を分けて考えている。自然の状態(エタ・ナチュレル)は、人間のごく原初の状態であり、「存在したこともない」かもしれない概念的な状態である。これにたいして自然状態(エタ・ド・ナチュール)はそこからやがて社会状態が発生してくる状態である。またほぼこれにあわせて自然人(オム・ナチュレル)と野生人(オム・ソヴァージュ)を区別している。ただし自然状態と自然の状態は時に混同されがちなこともある。

中山元訳 ルソー『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫 P276 注釈(22)


※ルソーは、最初の人間が神から直接知恵を授けられたのであれば自然状態なんて存在し得ないという風に書いているので、たぶんキリスト教的世界観との対立を避けたのではないだろうか


・ルソーは自然状態を通して人間の「本性」を描こうとしてて、それは本来性とはまた別なのだろうか? かつてそういう状態が存在したからそこに戻ろうっていうのが本来性で、「理想状態を仮定してそこを目指そう」っていうのは本来性ではないと考えるのか……
→B:本来性と理想は違うと思う。「本来はこうだったから、それが理想」と言うかどうかは別で、「本来こうだったけれど、こうなりたい」だと違う。本来なんて分からないから、「理想はこうだからこっちに向かってやろう。どこまでできるか分からないけど」のほうが、現実的だと思う。ここの議論は「囚われるな」と言いたいのかなと思った。例えば憲法の話でも、「これはアメリカから押し付けられたものだから、本来は日本のものじゃないから変えるべきだ」って言うのなら変えなくていいと思う。「現状に即してないから変えるべきだ」という話ならわかる。「本来はこうだから」という囚われかたは無意味だと思う
→E:理想はそれぞれの理想って感じで理想同士はぶつかったりするけれど、本来と本来ははぶつかっちゃダメというか。過去のことだから
→「本来性」ってすごく暴力的な言葉かもしれない。みんなこうあるべきだっていう
→A:「本来」って議論の不可能性だと思う。理想は話し合いで作っていけるけど、本来って言ってしまうと議論が許されない感じがする
→E:そう言えるものって本当に限られると思う
→B:本来性を、そのひと個人の考え方ととってもいいかもしれないけれど、それでもやっぱり強制力があると思う
→E:「それぞれの本来でいいでしょう」ってことにはできない
→B:じゃあ本来とは? 自然? じゃあ自然とは? ……ということになってくるから
→E:どこから人間的とみなすのかとか色々問題が
→B:ルソーの話は、どうしたいというよりは「こういうことでしょ」って分析してみましたみたいな話かなと思った。それは結構大事。どっちかの説に立つって論文とかでは大事だけど、間でこういうことを言う人がいないと、一方が排除されるということになっていくし。そうやってちょっとずつ間をとっていくことで、囚われから解放されていくのかなという感じがする
→D:「本来」という言葉を人間に当てはめるのはダメなんじゃないかなと思う。仕組みとかシステムには良くても
→E:みんなが決めた共通のものであれば
→D:そう。そういうことには使えても、人の性格とかには……
→E:人間の始まりも未だあやふやなのに、本来人間とはどういうものだっていうのはなかなか難しい。そこを議論していきましょう、というのはいいかと思うけれど
→C:本来ってそもそもと似てると思う。そもそも論を言ってたら何も進まない

・C:「本来性なき疎外」というのは良いこと? 悪いこと?
→A:國分先生的には肯定してると思う。ルソーを援用して國分論を強化してる感じ

ルソーの「本来性なき疎外」


・ルソーは面白い人。教育論を書きながら自身の子を孤児院に送ったとか
→B:矛盾でできてる。人間っぽい
→ルソーは文才で出世したとか
→E:破天荒だ

・マルクスの解釈が人によって全然違うので何が正しいのか分からない。読む本によっては「マルクスも疎外のプラス面を考えたんだ」みたいな意見もあって。実際マルクスは疎外という言葉をだんだん使わなくなって、代わりに「物象化」という言葉を使いはじめたという見解もあって。その辺は原典当たらないと全然分からないので、ぜひ「資本論読書会」を……
→A:あれはキツい!
→岩波で全9冊。マルクス自身は1巻刊行後に亡くなってるらしいけれど
→A:だいぶエンゲルス分が高いらしい
→B:「ヘーゲルは疎外を肯定的に捉えて、マルクスはそれ批判した」って話だったと思うけれど、マルクス自身もヘーゲルを誤解してるかもしれないのでは? ヘーゲルがいう「自分に固有のものを投げ捨てる」というのを、マルクスは「労働者は自分の時間を捨てている」と読んでいる。でもヘーゲルが言ってるのは「時間を捨てろ」ということではなくて、「自分がここで働かなければいけないという枠組み」という風に考えると、マルクスは誤読してると思った。解釈合戦だなと思う
→そもそもここに書いてあること自体が「國分先生が解釈したヘーゲルとマルクス」であって、原典を当たらないことには何にも言えないけれど
→B:マルクスが好きなんだなということはとてもわかる

・マルクスの言及する「暇の過ごしかた」について
→文學界での対談で、國分先生は白井聡さんを引用して同じような話をしている

昼はサラリーマンをやってるけど、夜になると野球評論家になる。家に帰ればお父さんをやっているかもしれない。会社員であるだけでなく、阪神の批評家でもある時間をもつことは、人間が生きていく上ですごく大事なことじゃないか。

対談 國分功一郎×若林正恭「真犯人を捜して生きている」
『文學界 2021年3月号』文藝春秋 P135


・第四章の脚注の数がヤバい
→「消費社会じゃないあの頃はよかった」みたいな安易な意見に辿り着かないために必要だったのかな
→A:もう戻れないんだからという

・B:「これを言うために仮にこういう状態を置いてるけれど、別にそれを目指してくれと言ってないんです」というのがすごく面白かった。疎外と本来性を切り離すというのは、囚われてるものから解放されていくことに繋がるのかなと。昔からみんな同じようなことを考えてたんだなと思った。マルクスも「サラリーマンもいいけど他のこともやったほうがいいし、あまり義務的にやるのもよろしくない」みたいな話であって、そういうことが百年以上前から言われてると。なのにその読み解かれかたが違ったから社会に反映されてこなかったというのが、人間らしいなと思う。こういう読みかたが出てくるのは、國分先生の解釈もあると思うけれど、世間的にもそういう価値観が求められてるのかなと思うと面白い
→A:「國分論において引用したいところ」を引用しているので、本来性があると信じたい人たちは逆張りで来るだろうなと思う。そこが面白い

・A:ある程度昔の考えかたが復活してきている気がする。「今改めて読むと」というのがあって。ふた世代ぐらい前の考えが今に生きてくるっていうのが、色んなジャンルであると思う。資本論とか社会主義とかも、そういうタイミングに来てるのかなと
→E:そういうサイクルがあるのかな? ファッションとかもそうだけれど
→A:一度流行って飽きるというのがあると思う
→B:ファッションは作り手側が管理してる部分もあると思う
→A:親世代の考え方に反発して、そしたら結局祖父母世代の考え方になってくるみたいな
→B:祖父母世代に親世代が反発して、今度は親世代と子世代が対立する。だから祖父母の言ってることも分かるけれど、そのまま受容できるわけじゃない。世代ごとに中間をとっていってる感じがして面白い。辺境だと思ってたことが中立になったり、中立だと思っていたことが極論になったり。
人は過去の歴史を清算しようというけれど、膨大な歴史を全部清算するなんて絶対無理。過去に学ぶだけじゃなくて、今どうするということを考えていくのがすごく大事だと思う

たぶんこういうこと?


・暇倫はなぜ売れているのか?
→暇倫は「売れてるから売れてる」
→A:國分先生自身のキャラクターも立ってるし、もちろん論旨が納得できるからというところもあるし

感想

・答えや正解を無理に出そうとすると、そこにハマってしまう。決めないまま考え続けていくのが重要だと思う
・結論を出すのが目的じゃなくても、共有することでそれぞれ自身の中で結論が出るというのが面白かった
・自分なりの結論を考えていきたいなと思った
・学校っぽい感じだけれど、答えを押し付ける感じではなくてよかった


配布資料・主催者の感想など

ここからは、読書会をまとめて感じた私個人の意見を書いてみようと思う。また、参考までに当日配布したまとめ資料のPDFデータも添付した。内容を箇条書きしただけの簡易なものだが、振り返りなどにご活用頂ければありがたい。


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イベントレポ

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま