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「生きてるだけ」じゃだめですか?

本当にしんどいとき、「生きてるだけで十分だよ」という言葉はとても励みになる。だがそんな状態がしばらく続くと、いつの間にか「これでいいのだろうか?」という疑問がぼんやりと立ち込めてくる。

一体、これはどういうことなのだろう?
「生きてるだけで」というあの優しい温かさは、どこへ行ってしまったのだろう?
そんなことを考えさせられる本に出会った。


京大出のハカセは悪戦苦闘の職探しの末、沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。勇躍飛び込んだそこは、「ただ、居る、だけ」が敷きつめられたふしぎの国だった——。

東畑開人『居るのはつらいよ——ケアとセラピーについての覚書』医学書院 帯文より


帯の紹介に「大感動のスペクタクル学術書!」と書かれているように、小説と学術書を合体させたような不思議な本である。方向性としては『嫌われる勇気』に近いような気もするが対話篇ではなく、「ハカセ」の独白を中心としつつ、さらっと専門用語の解説や状況分析が盛り込まれるという技巧的な構造になっている。ユーモアもいい感じに散りばめられていて(やや森見登美彦みを感じた)、面白く読み進められる。


「いる」とは何か?

先ほど引用したあらすじの通り、この本の大きなテーマは「ただ、いる、こと」である。大学で「セラピー」を学んだ主人公・ハカセは使命感に燃えてデイケア施設にやってくる。しかし、そこで最初に言い渡された言葉がこれなのだ。

とりあえず、あんたはそのへんに座っといてくれ

同上 P34


ああ、この感じめっちゃ覚えがある。バイトに出勤した初日、諸々の手続きは済ませたものの、実務を教えてくれる社員が出払っていて、事務室で延々と待機させられたあの時のあの感覚だ。実に居心地が悪い。
しかし、ハカセのモヤモヤはこんなものの比じゃないだろう。「セラピーをするぞ!」と意気込んでやってきたにも関わらず、これなのだ。しかも「ただ、いる、だけ」の要求は、決してこの日だけに限らなかった。セラピー、すなわちカウンセリング業務がない時間はデイケア施設で過ごすことになっていたのだ。

10時間。それほどの間「ただ、いる、だけ」は、きつい。そこでハカセはある行動に出るが、結果的にそれは裏目に出てしまう。こうした失敗を経て、ハカセは真剣に「いる」ということについて考え始めるのだ。

「とりあえず座っている」とは、「一緒にいる」ということだったのだ。そのとき初めて、僕はデイケアの凪の時間、魔の自由時間を居心地いいと感じた。

同上 P53


ハカセは、デイケア施設のメンバーさん(利用者)やスタッフたちと一緒の時間を過ごした。バレーボールやトランプで遊んだ。世間話をした。深い話ではなく、浅い話をした。そういった時間を共に過ごすことで、ようやく「いる」ことができるようになったのだ。
本書はこの経験を、ウィニコットという精神分析家を引用しつつこう解釈している。

環境に身をあずけることができないときに、僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする。
(中略)逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。

同上 P57


ウィニコットの言う「本当の自己」にはあまり納得はできない。もちろんここで言われているのは、自己啓発本や宗教家が言うところの「本当の自分に出逢いましょう」みたいな怪しいものではない。「ぼーっとしていて、無防備な自分」であり、母親に完全に依存している状態の赤ちゃんである。だが、それでもやっぱりどちらが「本当」でどちらが「偽り」というのはちょっとおかしい気がする。「する」ことでなんとかその場にいようとする自分も含めての自分じゃないかなと思う。
まあその辺りは言葉の定義の問題であって、「いる」ができないとき「する」をしてしまうという感覚は非っ常によくわかる。わかりみ深し。いとらうたし。

ここでまた自分の経験を振り返ってみると、思い当たる経験があった。とある「居場所」を初めて訪ねたときのことである。そこは「居場所型デイケア」に近い施設で、利用料さえ払えばどのように過ごしてもいいという場所だった。ただしデイケアと違い、何か活動の時間があるわけではない。本当に、ただただ純粋に「いる」ための場所なのだ。(たまにイベントは開催されているが)
その場所を訪れた頃の自分は、誰かとの繋がりを強く求めていた。社会からどんどん取り残されていくような気がして焦っていた。とにかく何かを「する」ことによって生き延びていた。だから、ただ「いる」だけの時間は、しんどかった。

この話は、読書会を開催しながら読み進めている『暇と退屈の倫理学』に出てくる、「退屈の第一形式」としても理解できる。

やるべき仕事がないと、人は何もない状態、むなしい状態に放って置かれることになる。そして、何もすることがない状態に人間は耐えられない。だから仕事を探すのである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版 P221

ここで言われている「仕事」とは、まさに何かを「する」ことだ。つまり、私たちはただ「いる」ことができないから仕事を探す、と言うこともできるのかもしれない。


ここまでの話をまとめよう。私たちにとって「ただ、いる、だけ」はつらい。退屈だ。だから、「する」ことで何とか自己を保とうとする。
そして、「ただ、いる、だけ」ができるようになるとは、誰かと一緒にいられるようになるということだ。「他者に対して開かれる」とも言えるかもしれない。
これらを踏まえつつ、第五章ではさらに興味深い話が展開されている。『暇倫』とも大いに関わってくる話なのだ。

退屈できない人たち

頭の中が「何か」で充満してしまう

第五章のタイトルは『暇と退屈未満のデイケア』である。まさに『暇倫』についての話である。『暇倫』において、人は「なんとなく退屈だ」という声に耐えられないから気晴らしをするというハイデガーの分析が紹介されていた。しかしそれは、全ての人に適用される理論ではないのだ。『暇倫』の注釈でも指摘されているが、これは「定型発達者」の理屈である。
第五章は、「退屈できない人々」についての話なのだ。

例えば、幻聴や被害妄想。そういった「何か」の声が絶えず脳内に充満している人々は、退屈なんかしていられない。これは統合失調症の人だけに限らず、不登校の子どもが何もないところに「自分への攻撃」を見出したり、私たちが会社を休んだ翌日に感じる「周囲の目線」といったものも、やはり退屈を塞いでしまう。一体これは何なのか。
原因とされているのは、「自我境界の揺らぎ」である。

自我境界がきちんとしているから、自分の考えと人の考えを混濁しない。現実と空虚を混濁しない。逆にいうと、自我境界が揺らいでしまうと、いろいろ面倒なことになる。たとえば、幻聴。そのとき、内なる声と外の声が混線してしまっている。

『居るのはつらいよ』 P140

自我境界は自分を守ってくれる円である。この円が閉じているから私たちは退屈を覚えるが、それは平穏な日常を過ごせることの裏返しなのだ。考えてみれば、思い当たる節はたくさんある。自己否定が強まって「きっと変に思われたに違いない」「失望されたに違いない」と考えるとき、自我境界はあいまいになっている。(この自我境界の安定感の個人差には、気質とか幼少期の愛着とか生育環境とか色々な要因があると思う。そこも気になる)
では穴の空いた境界を閉じるにはどうすれば良いのだろうか?
「課題の分離」、自分は自分、他人は他人と言い聞かせるしかないのだろうか?

そこで解決策として出てくるのが「遊び」である。

じつは遊ぶことって誰にでもできることではない。遊べない人もいる。あるいは遊べないときがある。うつになるとゲームをするのも嫌になるし、不登校児はおもちゃに囲まれても手を伸ばすことができない。(中略)心が逼迫しているとき、僕らは遊ぶことができなくなる。

同上 P152

逆に言えば、「遊ぶ」ことができるようになれば回復したと言えるのだ。なぜならば、

遊びは中間で起こるのだ。主観と客観のあわい、想像と現実のあわい。子どもと母親のあわい。遊びは自己と他者が重なるところで行われる。それはすなわち、人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している。

同上 P154

ということなのである。
ここを最初読んだとき、「じゃあひとり遊びは?」と疑問に思ったが、「遊ぶためには、誰かが心の中にいなければならない」とのことらしいので、まあそういうことなのだろう。確かに不安で孤独すぎたら遊ぼうっていう気にならないもんね。

こうして、退屈することができなかった青年は、「遊び」によって回復した。めでたしめでたし。というふうには終わらない。なぜなら、回復とはすなわち退屈が生まれるということで、遊びはいずれ終わってしまうからだ。(『暇倫』でいう「退屈の第二形式」が始まる)
第五章はそんな感じで、なんかしんみりと終わる。
だが、ここで語られていることはやはりとても重要だと思う。私たちは自我境界の揺らぎによって「何か」に満たされてしまう。そんなとき、「遊び」によって自己と他者とを重ねることで、安定の状態へと戻っていくことができる。遊び、めっちゃ大事じゃん。

ケアされることでケアする人々

第七章にも面白い話が出てくるので、少し紹介したい。「ケアされることでケアする人々」の存在である。

教祖様とか、ホストクラブとか、アイドルとか、デイケアスタッフとか、これらは全てケアされることで心をケアする仕事なのだ。心を使って、心に触れて、心に良きものをもたらす仕事では、ケアしてもらうことでケアをしているというふしぎなことが起きる。サービスと貨幣の交換という世間一般の常識とは違ったことが起こるのだ。

同上 P120

ファンは「推し」に対して投げ銭をする。これは一見不可解な行為だが、「推し」は応援されることでファンを「ケア」しているのである。
ではなぜファンは推しを推すのか。それは「投影」という心理状態による。投影とは、「自分のこころの中にあるものを、外界の誰かへと投げ込む」ことである。つまり、ファンは推しの中に「もう一人の自分」を見ている。推しをケアすることは、自分自身をケアすることなのだ。

アイドルを媒介として自分自身をケアしているの図


だが、投影には危うい側面もある。自分の中の「嫌いな自分」を相手に投影したとき、相手は理不尽に攻撃される対象になってしまうからだ。この辺に感情労働の難しさがあると思う。さらに言うと、アイドルとか教祖様はお金を受け取る対価に「ケア」という目に見えないものを与えている。これが資本主義社会の構造と組み合わさったとき、何か恐ろしいことが起きてしまわないだろうか。

さて、いよいよ本書も大詰めである。最初の問いに戻ろう。なぜ「ただ生きているだけ」じゃダメなのか?

会計の声

本書の最終章は急転直下だ。それまで理想的な「アジール」(避難所、安心できる場所)として描かれたデイケアに暗雲が立ち込めてくる。ハカセにとってのデイケアはアジールから「アサイラム」(画一的に管理される場所)へと姿を変えてしまうのだ。
一体何が原因でアジールは失われてしまったのか。原因を探る中で現れてきたのが、「会計の声」である。

会計の声は、予算が適切に執行されているのか、そしてその予算のつけ方そのものが合理的であったのかを監査する。コストパフォーマンスの評価を行い、得られたベネフィットを測定し、そのプロジェクトに価値があったのかどうかを経営的に判断する。(中略)
そういうことを超えて「いる」を肯定しようとする「ただ、いる、だけ」は、効率性とか生産性を求める会計の声とひどく相性が悪い。

同上 P317

うん、資本主義だ。資本主義社会において、その役割が見えにくく合理的と判断されにくい「居場所型デイケア」は予算がつきにくい。結果、利用者が画一的に管理されるようになったり、「ケアする側に対するケア」が行き届かなくなってしまう。こうしてアジールは失われる。端的に言えば、

アジールは、予算がつくとアサイラムになる。

同上 P325

ということである。
そしてこの「会計の声」を内面化してしまったときに出てくるのが、「こんな状態でいいのだろうか?」という疑問なのである。そこにニヒリズムが生じる。こういう仕組みだったのだ。


……う〜ん、そうかなぁ?

感覚的にはわかる。確かに現代人には合理性を求める価値観がどこかしらあるだろうし、組織に予算がつくと透明性が重視され、あらゆるものが管理されるようになるというのはおそらく正しい。それに資本主義からの脱出は困難だ。一般的には能力を発揮して働かないと生活していけないし、世間もそれを求めてくる。
だが、全ての人がこの「会計の声」に流されてニヒリズムに陥っているわけじゃない。一体その違いは何だろうか。

まず「会計の声」の大きさは環境に左右されるものだと思う。たとえば、ベンチャー企業でバリバリ働いてるやり手サラリーマンにとってこの声はめちゃくちゃ大きいだろう。もっとシンプルに言えば、朱に交われば赤くなる。意識高い人に交われば意識高くなる。これは逆に言えば、「会計原理」から離れた場所にいれば、その声は小さくなるということだ。実際自分も世間的に見てめちゃくちゃ非合理的な生き方をしているが、それに対してとやかく言う人が周りに少ないのでなんとかやっていられる。 (こういう取り組みとして「共有地」とかがあると理解している)
そして、さらに細かく見れば「影響のされやすさ」も個人によって違う。朱に交わっても青いままの人だっている。これはつまり先ほど考えた「自我境界の安定した人」だと思う。

自分は心理学も精神医学もど素人なので(そもそも専門なんてないが)、これは勝手な自己理解に過ぎないけれど、「見捨てられ不安」が関係しているのではないかと考えている。つまり、幼少期から「何かをすること」でしか周囲に承認されなかった子どもにとって「ただ、いる、だけ」は難しい。
あるいは『暇倫』で言及されている「サリエンシー」(刺激)の概念を使って説明するならば、サリエンシーに対する慣れをうまく獲得できなかった人は、内側からその傷に苦しめられる。その苦しみから逃れようと、別の刺激を求める(「する」ことを探し始める)。
要はニヒリズムに陥りやすいかどうかには個人差があるということだ。

では、そんなニヒリズムに迫られたとき、私たちはどうすれば良いのだろうか?
そのヒントは既に第五章に書かれていた。そう、「遊び」だ。
遊びによって誰かと一緒にいられるようになったとき、私の自我境界は安定していく。この安定感がきっとニヒリズムから私たちを守ってくれるのではないか。

ということで、次回は「遊び」について考えてみようと思います。

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昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま