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啓蒙力の残酷な差

現代はかつてないほどに、残酷なまでに啓蒙力の個人差が出てきたと思う。
特に大手メディアによる発信だけでなく、個人のインフルエンサーによる発信が行われ、一方的な情報が多い。
コメントなどで双方向性を保っているように見られても、いくらでも見たくないものはブロックできるようになっている。
コメントをする人たちのことを、誹謗中傷などとメディアは言ったり、魑魅魍魎と呼ばれることも出てきた。
正当な理由を持った批判的意見を持っていたり、不安や問題を抱えているのに、誰にも意見を聞いてもらえない感覚を抱えた人も多くいるのだと思う。

核家族化や、友人関係の希薄化、メディアによるステレオタイプの増加、私たちは孤独を感じ、社会的ポジションや、インプレッション、どのようにメディアを扱うか、そこでの言語化や人目を発信がどれだけ上手くできるかなどで、その意見の啓蒙力がまさに可視化されてきている。そこではまさに言語力や知能も残酷なまでに現れる。

人間は決して平等じゃない、凸凹があって支え合って成り立っている。
それをあるレール、側面で切って、誰が偉いなどとマウントする状況にある。そして、目立った人たちは多くの人々に羨まれ、少しのミスでも多くの罵倒を受けることになる。それは足の引っ張り合いに近い。

私はテレビでの情報や、ネットでのやり取りなど、多くの情報を受けていると、気持ちの整理が追いつかないことが多々ある。
特に、なぜそのようなことを発信するのか、理解や、自身での言語化が追いつかず、うまく誰かと共有もできず、腹立たしくなったり、悲しくなったりする。
逆に喜びや高揚を感じたりしても、それがうまく共有できずに、虚しさに至ることも多い。

なんでも発信したり、情報に囲まれ、埋もれていく中で、発信源はどこかや、誰が言っているか、その情報が確かなものか、そんなことを確かめるのが大事とされる。しかし、魑魅魍魎とされた人々や、個人の抱えた怒りや鬱憤、不安感などを、うまく共有できる場、安心して話を聞いてくれたり、話をしてくれたりする環境は全然足りない。

そんなことをここ最近のメディアを見ていて感じる。
なぜ以上のようなノートを書きたくなったのか、具体的な原因は沢山あるけれど、それを書き上げるほど、私の言語力は現状上手く機能していない。

ただ感じるのは、特に男、おっさんが争ってしまう生き物であること、それがほぼ無意識にステレオタイプ化していて、おっさんが仕切るような、公共の場や、テレビなどでも、あいつはできるやつ、こういうのが上手く生きていけるやつ、そんな話が飛び交うようになっていることへの憤り。(特に、多くの〜しなきゃ生き残れない、〜をせよ、〜はダメといった発言や、インプレッション稼ぎのコンテンツ。)

それらは注目を浴びるためや、インプレッション稼ぎだとわかっていても、自分の問題意識と偶然に一致していたり、不意に観てしまう。
自分は上手くできないな、そうじゃないなと感じていたり、うまくそれらにずっと合わせようとして苦しんでいる人たちがとても多いんじゃないかと思う。自分もそうだったし、今でも時にそうだ。

これによる劣等感、そこから生じる自己肯定感の低下は問題だ。自己肯定感が下がると、無意識のうちに、他人を羨み、批判したくなり、冷たい人間になってしまう。

やはり、他人が言うようなレールに合わせるのではなくて、周りはお構いなしに、自分なりに何かを創造したり、ものづくり、誰かを手伝ったり、何らかの仕事を通して、誰かに褒められたり、喜んでもらったり、そういった少しの成功体験のようなものを出来るだけ多く積む必要があるのだろうと思う。

例えば、何か料理をして誰かに食べてもらい、喜んでもらう。それは特に、いいだろうなと思う。下手なお勉強をする学校や、リスキリングとかいって都合のいい労働者を増やそうとする学び直しの場があるが、
人々を幸せに手っ取り早くしたいなら、料理をもっと学んでいけたらいいと感じる。
得意、不得意はあれども、料理を上手くできるだけで食べたいものを自分で作れることの幸せ。
安い材料でうまくやれば、食費だって外食に比べたらずっとかからない。
ちなみに、外食産業、労働者の確保をするためにあえて、料理を教えてないのではないか、また、料理を学ぶ暇を与えず、働かないと食っていけないと思わせるために、くだらない、不幸な受験戦争や、資格争奪戦を人間は敢えてさせているのではないか?そんな不信感すら現在の社会システムに感じてしまう。

徐々にインターネット上であらゆる情報の暴露されてきていて、いかに情報をうまく使いこなせるかが試されている。
知らないは罪、ますますそうなのだろう。

自分の気持ちの整理も兼ねて書かせてもらった。また何か思い立ったら書こうと思う。


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